12月下旬、E子さんはもはや牛乳をわずかに飲みくだすのがやっとの状態になった。一日中寝ているだけで身動きもできないほど衰弱し、顔面は腫れあがり、火傷あとは膿みただれた。もちろん風呂にも入れていないしトイレにも行けないから、膿と垢と尿の悪臭で、彼女はもう完全に少年たちの性欲をそそる存在ではなくなった。
ここに至って彼女は完全に「邪魔」になる。そこにもう人間としての尊厳はない。ただの「モノ」であり、「汚物」であった。

 

1989年1月4日、Aは賭け麻雀に大負けして不機嫌だった。このまま家に帰ってもつまらないので、B、C、Dと合流することにした。なおC宅にはE子さんがいるので、このとき彼らはD宅にたむろしていた。
D宅でちょっとファミコンをして遊んだが、麻雀で負けた鬱憤は晴れない。そこでAは、
「ひさしぶりに、カンキンオンナをいじめてスカっとするか」
と言って、全員を誘ってC宅に向かった。
E子さんはCの部屋で、身動きもできずに仰向けに寝ていた。少年たちは彼女に「Bを呼びすてにした」と因縁をつけ、殴る蹴るしはじめた。
Aは蝋燭を持ち出すと、彼女の顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てた。E子さんは最早ほとんど反応を示さず、されるがままであった。
さらにAはE子さんが牛乳パックに排出した尿を無理に飲ませている。B、Cは彼女の顔面を回し蹴りし、E子さんが倒れると無理やり引き起こして、さらに蹴りつけた。E子さんは身を守ろうとする体力もなかったので、そのまま転倒して室内のステレオにぶつかり痙攣を起こした。
Aはそれを見て「仮病だ」と激昂。
「てめえ、俺の前で仮病使うのか」
そう怒鳴ると、いっそう激しく殴打した。E子さんが鼻血を出し、手足のただれた火傷から血膿がにじみ出たため、「汚い」と言って、自分たちの拳をビニール袋で覆ってからまた殴った。
部屋にはキックボクシング練習器があったので、しまいにはその1・7キロもの鉄球を使って殴った。AはこのときになってもまだE子さんの体にオイルをかけて焼いている。が、彼女はわずかに手を動かして火を消すような仕草をしただけで、そのうちぐったりして動かなくなった。
2時間にもわたる暴行の末、彼らは「飽きて」部屋を出、サウナに行っている。

 
1月5日、彼らは見張りに残していたFから、E子さんが死んだという連絡を聞いた。死体の始末はどうしようということになり、Aが以前タイル工として勤めていた会社からセメントを調達し、ドラム缶に死体を入れてコンクリートを流し固めた。ドラム缶は江東区の工事現場まで運び、そこに投げ捨てた。
そして、この死体は3月29日になるまで、発見されず放置されることとなる。

警察が逮捕状を持ってC宅に捜査に訪れると、Cの両親は最初のうち抵抗したが、やがて諦めて「弁護士立会いのもとでなら」と中に捜査員を入れた。Cの部屋は壁、床はもちろん、天井にまで被害者の血が飛び散っていたという。捜査員のひとりは、
「人をただ殴っても天井に血はつかない。だらだら血を流している人間の顎をさらに殴り上げるようなことをなんべんも繰りかえしたのだろう」と語った。

この事件が報道されるや、マスコミは争って報道し、国民は少年犯罪のレベルが「ここまで来たのか」と慄然とした。
Cの両親は共産党党員だったので、当初「赤旗」に両親の談話と擁護記事が載ったが、やがて事件の詳細が知れるや、両親は離党し、同新聞には「この事件は日本共産党とはいっさい関係ありません」という一文が掲載された。
写真週刊誌は被害者の水着写真などを載せ、ひどいときには被害者のことを「不良だった」、「加害者たちにナンパされ、ほいほい付いていった」、「加害者の仲間だったが、いじめがエスカレートしただけ」と報道した。中山千夏をはじめとするフェミニストがこれに激昂し「報道のセカンドレイプだ」と抗議。『彼女の悔しさがわかりますか』という本を出版した。
マスコミにもっとも責められたのは勿論、監禁場所を「提供した」と言われるCの両親であるが、特にCの母親が裁判で、
「あの子には家に帰るようすすめました。でもあの子が『いいです』と言ったんです」と証言し、
「脅されていたんでしょう」と検事が突っ込むと、
「認識の違いで、申し訳ありません」
と答えたり、さしたる脈絡もなく「あの女の子は煙草を吸っていた(被害者が喫煙者であったかどうかは未確認。本件とはどちらにしろ関係はない。ただ、「煙草を無理に2本吸わせる」ことを少年たちがいじめの手段として使っていたところからみて、可能性は薄いと思える)」などと言ったりしたことが批判された。のちにCの両親はこの批判的な報道に怒り、弁護士を通じて抗議している。

 
公判でAは、
「いま思えば、人間だと思っていなかったですけど、そのころは、そういう人間とか、そういうものも考えてなかったです。死んでいるのを見ても、ああ、やっぱりこれがあいつの運命だったんだなぁと思った」と証言。
同じくDは、
「やってるときは、何も思ってないです。(そして、やり終わったあとも)思ってないです」と証言した。
また弁護士の伊藤芳朗氏は、公判で少年Bを担当した一人だが、
「初めて接見した時、Bは『彼女はかわいそうだったけど、遊んでやったんだからいいじゃない』と開き直っていました」と述べている(もちろん、その後改心し自分の罪に気づいた、という描写がつづく)。
E子さんの母親は少年たちの証言を聞いて激しく動揺し、精神科に頻繁に通院して投薬してもらわねばならない精神状態に陥った。

 

1990年7月、東京地裁の判決はAが懲役17年、Bが懲役5~10年、Cが懲役4~6年、Dが懲役3~4年。検察側は控訴した。
1991年7月、高裁はAに懲役20年、Bに懲役5~10年、Cに懲役5~9年、Dに懲役5~7年を宣告。また監視役のFを含めた3人を少年院送致とした。

蛇足を承知であえて後日談として記すが、少年法改正について語るという目的で2000年11月28日に放送されたニュースステーションに、Fと、Dの母親が後ろ姿で出演した。
この時点でFは結婚して娘がおり、Dは出所後、自閉的な引きこもりとなって母と姉(事件当時Aの彼女だった)に生活の面倒をみてもらっていた。
放送後、番組掲示板に書き込まれた意見は、7割近くが番組とF、ならびにDの母親の現態度に対する批判だった。
Fに対する批判の内容は主に、彼が淡々と「反省している」と口にしたそばから
「やれと言われて、こわくてやった。仕方なかった」
と言ったこと、他人事のようになめらかな口調で事件の詳細を語ったことや、また「よく平気で結婚し子供を作れたものだ」という意見も多く見受けられた。だが総じて「常識人として極めて正常な反省の言を述べていたようだが、あまりに正論、奇麗事に過ぎ、正直、彼の本当の気持ちなのかどうか疑わしい」という意見が大多数であったようだ。
Dの母親は、
「息子とはほとんど顔を合わせない。事件のことも話さない。まだあの子は事件と向き合う時期に来ていない」、
「どんな形ででも親は子供に生きていてもらいたいですから、私の死後はお姉ちゃんにあの子の面倒をみさせます」、
「遺族の方には謝りに行こうと思ったんですが、拒否されると聞きましたのでやめました」
などの意見が多く非難され、「子供を更正させようという気がまったく感じられないし、親としての事件への反省も見られない」という書き込みが多かった。

なお、主犯Aを除いては全員が出所している。Aの釈放は2008年前後であろうと言われているが、確かなことはわからない。

 

 

引用元:怖い話いっぱい 綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件
参考サイト:女子高生コンクリ詰め殺人事件

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