AKB商法を見るたびに「現代の茶道だな」と感じる。

茶道といえば、日本古来からの文化。
日本の心。日本の作法。
では、茶道を茶道たらしめた原因は何だろうか。

戦国時代、ある時を境に、戦国武将はみな茶道に魅了された。
茶道を家臣に奨励し、豪華な茶会を催し、高名な茶人を擁した。
茶道を大成させた千利休も、こうした時代の庇護を受けていたことは常識に属することだろう。
では、そもそもなぜ戦国武将は茶道を愛好したのか。

大学で学生にそれを問うと、みな「殺伐とした戦国時代で、なにか心の平穏が欲しかったから」などという寝ぼけた答えをする学生がほとんどだ。
何が「心の平穏」か。そんな答えをする時点で、茶道が何なのか分かっていない。茶道が「心が落ち着くもの」とでも思っているのだろうか。
日本人なのに、茶道など知らない学生のほうが大勢を占めているのが実際だ。

戦国武将は、他国を攻めて勢力を拡張するたびに、手柄のあった家臣に褒美として領地を与えた。当時は貨幣経済が現代ほど発達しておらず、褒美は基本的に土地と米の収穫高で換算する。
ところが、戦国の世のこと、「他国から攻められる」という場合もある。その場合、首尾よく相手を追い払ったとしても、手柄があった家臣に与えられる褒美がない。戦争が激化していく度ごとに、手柄の数と与えられる領地の比率に、無理が生じるようになった。

ひとりの天才が、その解決案を思いついた。織田信長。
与える領地がないのなら、家臣が満足するような価値をつくりだしてしまえばよい。

そこで信長は茶道に目を付けた。茶道は当時すでに形になりつつあり、有名な茶器は十分に芸術的な価値があった。茶会を開催することは、領地の一体感を高め為政者の権威を向上させる役割があった。
信長はその「価値の形成」を押し進め、茶道を保護した。その結果、有名な茶器が領地を凌ぐほどの価値を持つまでになった。
有名なところでは、滝川一益は褒美として上野の領地と関東管領の地位よりも、「珠光小茄子」という名茶器を所望した。関東管領といえば、上杉謙信が賜った ときに感涙に咽んだと言われる名誉の職だ。それよりも、泥をこねて作った茶碗のほうが価値をもつようになる。家臣は、領地よりも、天下の名器や茶会の開催 権を所望するようになった。

信長の凄かったところは、ありもしない価値を作り出しただけでなく、その作り出した価値が後の世において、独立した価値として十分に発達していくことを見抜いていたことだろう。
別に茶道でなくてもよかったのだと思う。同じ目的に即しているのであれば、建築でも絵画でも彫刻でも何でもよかっただろう。その中から信長が「茶道」を選 択したのは、茶道の中に、付加価値などではないそれ本体の価値が十分に発達していく伸びしろを見出していたからではないか。

その信長の見識の正しさは、茶道の歴史が証明している。千利休によって大成され、江戸時代を通して「茶道」はゆっくりとその文化を熟成させていった。明治期には岡倉天心の功績により海外に広く「日本文化の象徴」として知られるようになった。
ちなみに、岡倉天心は美術家、哲学者であって、茶人ではない。日本の美意識や世界観をしっかり学べば、茶道がその多くを反映していることは自明だったのだろう。

source : たくろふのつぶやき : 付加された価値

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