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北九州監禁殺人事件の全貌

人の弱みにつけこんで監禁をして金を巻き上げ、拷問と虐待によってマインドコントロール下に置き、お互いの不満をぶつけさせることにより相互不信を起こして逆らえなくし、被害者同士で虐待をさせることで相互不信を一層深くさせ、自分の手は汚さずに用済みとなった人間を殺害して死体処理を行わせた(裁判では6人の殺害と1人の傷害致死)。犯罪史上稀に見る凶悪犯罪とされ、第一審で検察側は「鬼畜の所業」と被告人男女を厳しく非難した。2011年12月、最高裁判所によって主犯Xの死刑と共犯Yの無期懲役が確定した。
非常な残虐性・悪質性にもかかわらず、事件に報道規制がかけられたとされ、事件の知名度は高くない。当初は地元の報道機関を中心に報道をしていたが、途中から報道機関が自主規制して報道量が少なくなり、全国の報道機関での集中報道に結びつかなかったといわれている。報道量が少なくなった理由としては「あまりにも残酷な事件内容のため表現方法が極めて難しいこと」「家族同士が殺しあった事件の性格から被害者遺族がメディアに積極露出をして被害を訴えづらいこと」があるとされている。

引用元:北九州監禁殺人事件 – Wikipedia

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北九州監禁殺人事件:事件概要

2002年3月6日、17歳の少女が小倉北区にあるマンションの一室から逃げ出し、祖父母宅へ助けを求めに駆け込んだ。
 少女は怯えながら、
「お父さんが殺された。私もずっと監禁されていた」
 と語った。少女の右足の親指は生爪が剥がれており、
「ペンチを渡されて、『自分で爪を剥げ』と言われたので剥がした」
 とのことであった。
 それまでの経緯などもあり、祖父は少女をともなって門司警察署へ監禁の被害届を出しに行くことになる。しかし彼女が供述した事実は監禁致傷にとどまらず、連続殺人――それも類を見ないほどの一家殲滅とも言える大量殺人であった。
 連絡を受けて現れた小倉北署員がこれ以後事情聴取を行なうことになり、そうして少しずつ、この事件の全貌が語られていくことになる。

 これら大量殺人の主犯である松永太は、1961年4月に小倉北区で生まれた。
 父親は畳屋であったが、松永が7つの時、実父(松永にしてみれば祖父)の布団販売業を継ぐため一家で福岡県柳川市へ引っ越した。松永の生い立ちについては特に語られるべきことがないのか、あまり情報がない。だが経済的に不自由はなく、母親と祖母にべたべたに甘やかされ、ほとんど叱られることのない幼少期を過ごしたようだ。
 高校2年の時、松永は家出少女を拾って自宅へ入れたことで退学となり、公立から私立の男子校へ転校。2年まで在学していた公立高校には、のちのち彼の『相棒』ともなる緒方純子も在籍していた。
 高校卒業後、松永は父親の営む布団販売業を手伝うかたわら、19歳で結婚し翌年には子供をもうけている。
 さらにこの年、布団販売業の有限会社を設立し、代表取締役としておさまった。だが、中身は粗悪品を訪問販売によって高値で売りつける詐欺まがいの会社であった。
 松永は契約のとれない社員に暴力をふるって虐待し、信販会社のセンター長に「接待」と称して昼間から酒を飲ませ、その姿を写真に撮って脅した。これにより信販契約の審査を甘くさせ、立替払金を着服するなどのメリットを狙ったのである。
 なお、のちの一家殺害事件にも使われた「通電リンチ」(電気コードの電線を金属のクリップに付け、腕などにテープで固定して通電する)は、この頃からすでに社員への虐待方法として使用されている。
対する緒方純子は、1962年2月に久留米市に生まれた。
 兼業農家で土地をかなり所有していた緒方家は由緒もあり、地元の名士とも言うべき存在であったようだ。純子は村会議員の祖父や兼業で会社員の父のもと、何不自由なく育っている。
 そんな彼女のもとへ松永から連絡があったのは、短大を卒業し保育士となって半年ほど経った頃のことであった。
「俺、フトシちゃん。覚えてる?」
 と、高校時代ほとんど面識のなかった純子に、松永は最初から馴れ馴れしかったようである。だが目的は彼女の卒業アルバムだったらしく、松永は卒業写真を見て気に入った女性たちに電話をかけまくっていたという。
 そのかたわら、彼は純子に色気を出すのも忘れなかった。
 「会社の業績は順調で、しかも芸能界からのスカウト話も来ている」と松永は嘘を吹きまくった。そしてすぐに彼女と関係を持つに到る。
 しかし妻子ある男との交際は、じきに純子の実家にバレた。松永は緒方家を訪れ、
「妻子とは別れます。緒方家の婿養子になります」
 としおらしく宣言し、その場で『婚約確認書』なるものを提出した。
 俗に「口約束」と言うが、その反面どんないい加減な話でも書面にされた途端、人はなぜかそれに信憑性があるような気になってしまうようだ。そしてこの手の無意味な書面を作って嘘に説得力を持たせるのは、松永のもっとも得意とするところだった。
 松永は純子に「莫大な利益を上げている会社だが、お前の婿養子になって緒方家を継ぐからにはつぶさなくちゃいけない。芸能界の話も、残念だがお前のために諦める」と言って、彼女に自責の念を抱かせた。
 純子の母はこの『婚約確認書』なるものをあまり信用しなかったようだが、この会見によって父の誉(たかしげ)さんはすっかり松永が気に入ってしまったようであった。
 松永はこの時、わずか23歳である。その年齢にしてこの人心掌握の上手さ、口車の巧みさは珍しいと言えよう。
 彼のついた嘘は上記の通り、たわいないと言えるものばかりである。しかし彼の周囲の人物――特に緒方家の人々――はまるで糸に操られるようにして、いともたやすくその嘘に踊らされていった。
 この一種のカリスマ性、マインドコントロールのたくみさ、並びに良心の乏しさや残酷さはオウム真理教の松本智津夫を髣髴とさせる。ただし松本を突き動かした、極貧と弱視ゆえのルサンチマンに匹敵するものは松永の半生には見られない。
 彼をそこまでにしたのは、むしろ真逆の
「保護者による甘やかしと絶対肯定による、エゴイズムの肥大・全能感」
 のように見受けられる。
 なお昨今の若年犯罪者に「おじいちゃん子、おばあちゃん子」が多いという事実も、これにまったく無関係とは言えないであろう。
純子の母、静美さんはある日、松永に「純子と別れて下さい」と頼みに行った。
 しかし松永はこれを言いくるめたばかりか、静美さんを言葉たくみにラブホテルに誘い出し、関係を持ってしまう。当時静美さんは44歳であった。
 だがもちろん土地持ちの豪農である緒方家の娘・純子を松永が離すはずはない。松永は嫉妬妄想にかられたふりをして純子さんを殴打し、胸に煙草の火で「太」と焼印を押し、太ももにも安全ピンと墨汁を使って同じく「太」と入れ墨を入れた。さらに肉体的暴力だけでなく、家族や親族に無理やり嫌がらせの電話をかけさせるなどして孤立させ、精神的にも追い詰めていった。
 耐え切れず、純子はある日自殺未遂をはかった。しかしこれがまた松永の思うつぼであった。松永は純子に仕事を辞めさせ、両親に向かって
「婿養子などもらって緒方の家の犠牲になるのはいやです、縁を切ってくれないならまた自殺します」
 と宣言することを強要した。松永はその上で、
「今となっては純子はお荷物でしかないが、私もまさか放り出すわけにもいかない。彼女が自殺しないよう面倒をみていきます」
 と恩に着せた物言いをして、このときも例の如く緒方家側に『絶縁書』なる書面を作らせている。この騒動により、純子は緒方家から分籍。次女である理恵子さんが婿養子をもらうことになった。
 徹底的に虐げられ、親兄弟からも孤立させられた純子は、以降なすすべもなく松永の従順な手足となって生きていくことになる。

 1985年、銀行融資を受けて松永は布団販売会社を新築。この頃が(詐欺商法まがいだったとはいえ)彼のもっとも羽振りの良かった時期かもしれない。
 しかし酷使と虐待により、従業員は1人逃げ2人逃げ、2年後には従業員は純子を含め2人だけとなってしまう。その上、1992年には詐欺や恐喝などを重ねた末、経営が破綻して石川県へ夜逃げする羽目となった。
 収入がなくなった松永はたった1人残った従業員に、母親に金を無心することを強要。しかし約3ヶ月後、その送金も途絶え、虐待に耐えかねた従業員は逃走した。
 しかし松永がこの会社経営その他詐欺行為によって得た利益は、一億八千万にものぼるという。
 1993年、純子は第一子を出産。しかし相変わらず収入はなく、松永は結婚詐欺を思いついた。ターゲットにされたのは、松永がまだ羽振りが良かった頃交際していた女性だが、当時すでに結婚して子供(3つ子)もいた。
 松永は彼女を口説き落とし、
「離婚して俺のところへ来い、子供のことも俺が引き受ける」
 と言いくるめて、彼女に家出をさせた。そして北九州市小倉のマンションを、彼女名義で賃貸契約させている。純子のことは姉として紹介した。
 彼女は貯金のすべてを松永に吸い取られ、前夫からもらう月々の養育費まで奪い取られ、親にも金の無心をさせられるなどして、合計1000万円以上を搾り取られた。なお金蔓としての価値がなくなった頃、彼女と子供のうち一人は不審死をとげている。
 一連の事件発覚後、この死と松永との関連が浮かび上がったようだが、残念ながら事件性が立証されぬまま捜査は打ち切られたようである。
1994年、松永は新たな金蔓を見つけた。
 今度は男で、不動産屋の営業をしていた虎谷久美雄さんである。彼は松永と同い年で、離婚して10歳の娘とともに暮らしていた。
 松永は「新会社を設立するから共同出資者にならないか」と持ちかけ、連日酒の席へ連れ出して、言葉たくみに些細な軽犯罪の過去等を聞き出した。計画がうまくいくまでの生活費は、純子に実家へ電話させ、泣き落としで送金させた。この金額も1997年まで63回に分けて、1500万以上にのぼったという。
 虎谷さんは松永に言われるがまま、新会社の事務所として小倉にあるマンションの一室を自分名義で賃貸契約する。
 そして純子が保育士をしていた経歴を大袈裟に吹聴して、10歳の娘を預かり同居させた。この少女が、のちに冒頭で警察に駆け込むことになる少女である。
 この時期から松永の虎谷さんへのマインドコントロールが始まった。
 虎谷さんが酒の席で口をすべらせた軽犯罪について問い詰め、お得意の書面(『事実関係証明書』と題され、私は~の犯罪を犯した事実を証明しますと書かされたもの)を作成した。松永のやり口は、内容は言いがかり同然でもとにかく執拗で、何度も何度も繰り返し相手の弱いところを長時間にわたって突いていくというものである。これをやられると被害者は次第に消耗して、自分の言い分さえ見失ってしまうのだった。
 これによって虎谷さんはやってもいない犯罪にまで『事実関係証明書』を作られ、それが弱みとなり、がんじがらめになっていった。
 虎谷さんは1995年2月、不動産会社を退社。いつの間にか新会社設立の話は消え、共同経営者どころか奴隷同然の身分になっていく。
 この頃から、虎谷さんへの「通電リンチ」が始まった。食事も制限され、一日中純子による監視がなされるようになった。虎谷さんは松永に命令されるがままに消費者金融から限度額いっぱいに金を借りては渡し、親族、知人など考えられる限りのツテから借金してはそれを渡した。
 しかしそれも1996年1月あたりまでであった。もう虎谷さんに金を作れるあては尽き、一目見てもわかるほどの栄養失調になっていた。松永は虎谷さんの殺害を決心するかたわら、新たな金蔓を探し当てる。次は女性で、また結婚詐欺であった。
 この女性も消費者金融、親族などすべての手段を使って金をぎりぎりまで搾り取られた上、「通電」を受け監禁された。だが彼女は命の危険を感じた末、アパートの二階から飛び降り、腰骨骨折や肺挫折を負いながらも何とか助かっている。
 しかし、虎谷さんは生き延びることはできなかった。
 虎谷さんが受けたリンチは凄惨なものである。
 食事は一日一回で、インスタントラーメンもしくは丼飯一杯。10分以内に食べ終わらないと通電を加えた。また、つらい姿勢や直立不動を長時間強要し、少しでも動けば通電。季節は真冬だったが、一切の暖房器具も寝具も与えず、ワイシャツ1枚で風呂場で寝かせていた。
 栄養失調のため嘔吐や下痢を繰り返すようになると、その吐瀉物や大便を食べることを強要した。その他にも裸にして冷水を浴びせる、殴打する、空き瓶で脛を長時間にわたって執拗に殴るなど、飽かず虐待を加えたという。もちろん「通電」はもっとも頻繁に行なわれた。
 2月20日頃になると、虎谷さんは腕を上げることもできなくなるほど衰弱した。この頃、松永は虎谷さんの実娘である少女に、歯型がつくほどきつく父親の体を噛ませている。
 2月26日、虎谷さん死亡。
 松永は少女に、
「お前がつけた歯型のことがあるから、お父さんを病院へ連れていけなかった。病院へ連れていったらお前が殺したことがすぐにわかって警察に捕まってしまうからな」
 と言い聞かせ、まだ小学校5年生の少女に『事実関係証明書』を書かせた。内容は「私は、殺意をもって実父を殺したことを証明します」というもので、長い間少女はこの書面に縛り付けられることとなる。
 松永は死体の処理を、純子と少女に一任した。二人は包丁、のこぎり、ミキサーなどを使って死体をバラバラにし、鍋で煮込んだ上、塊は海へ、肉汁は公衆便所へ廃棄するなどして処理した。
 なおこの死体解体の直後、純子は第二子を出産している。

松永太

1961年生まれ。98年逮捕時37歳。
この事件の最重要人物。暗示的な言葉で殺人を強要した。直接、手を下さず殺人を実行した。
公立小学校の時は、大した勉強もしないのに全学年を通して全ての科目が5で、学級委員長を何度も務め、生徒会の役員に就いたこともあった。
福岡県立三潴(みずま)高校(ここで純子と同学年になる)
2年の時に生徒会の風紀委員長に立候補、当選。
三潴高校2年の時、家出少女を拾って自宅へ入れたことで不純異性交遊により退学。
この前後、すでに緒方純子の妹・理恵子とは、久留米市の花火大会を通じて出会い、短期間交際、すでに肉体関係にあった。このときは、理恵子が純子の妹とは知らなかった(松永の法廷供述による)
三潴高校中退後、私立筑邦高校(現久留米学園高校)へ編入、そして卒業。
卒業後、父親の営む布団販売業を手伝うかたわら、19歳で結婚。緒方じゅん子※純子ではなく別人。翌年には子供をもうけている。

緒方純子

1962年生まれ。元幼稚園教諭。短大を出て、1982年ごろから自宅近くの幼稚園に教諭として勤務。約3年で退職。
優等生だが、自己評価が低く、松永以前は異性との交際関係が一度だけだった。
厳格な父親(門限19時)に育てられた。世間知らず。学生時代、リーダー的な妹に比べ、優しく他人を思いやる一面があったと、妹の友人が当時の印象を振り返る。
授業中、目を離したすきに園児がけがをした。関係者によると、父親と名乗る暴力団関係者がどなり込んできたという。勤務して、わずか2か月後の出来事。このトラブルの相談相手になったのが松永。以来、2人の親密な交際が始まった。
松永との交際は緒方家で反対される。が、松永が提出した婚約確認書(妻子とは別れます。緒方家の婿養子になります)に父親の誉はだまされ、松永を気に入る。母・静美はこの婚約確認書を信用していなかった。
松永は純子に、業績は順調で、松永自身も芸能界からスカウトされていると、松永が自分にはもったいない存在と抱かせる。一方で(婿養子になるため)事業をやめ、芸能界進出の夢もあきらめなければならないなど、彼女に自責の念を抱かせた。
松永は、自分には不釣合いな大きな存在として畏敬の念を抱き、尊敬するようになる。
松永より、胸に煙草の火で「太」と焼印を押し、太ももにも安全ピンと墨汁を使って同じく「太」と入れ墨を入れられた。
松永と出会う前は、男性経験は一度だけ。男性が一方的に腰を振るだけで感じなかった。
松永によりセックスに目覚める。以後、積極的に松永を求め、マインドコントロールとともに、松永のセックスから逃れられない身体になる。
悪質布団販売の事務員になり、この頃から従業員に通電など虐待に加担していた。
松永による暗示的な指示(強要)の元、通電の暴行、多くの殺害を実行したが「これは現実ではない」「やらなければ、自分がやられる」と心を閉ざすことで犯行を正当化していた。
世間体を気にして松永を排除する家族に反発するようになる。
父親に電話で投資話を持ちかけていた。
昭和60年2月13日、自宅で睡眠薬数錠を服用した上、左手首を切って自殺を図った。しかし病院に搬送され一命をとりとめる。
自殺未遂の後、さらに松永に取り込まれ、心酔するようになる。
結婚詐欺には純子も、松永の姉として犯行に及んだ。

名古屋アベック殺人事件の全貌

名古屋アベック殺人事件(なごやアベックさつじんじけん)とは、1988年2月23日から25日にかけ愛知県名古屋市緑区の大高緑地において理容師男性と、交際相手の理容師見習い女性の男女2名が犠牲となった強盗殺人・集団強姦事件。被害者2名が襲撃された場所の名前から「大高緑地公園アベック殺人事件」(おおだかりょくちこうえんアベックさつじんじけん)とも呼ばれる。非人道的で残忍な手口と身勝手な犯行動機で、日本中を震撼させた。犯人グループ計6名の大半が未成年であったことから、少年法改正に多大な影響を与えた事件である。

引用元:名古屋アベック殺人事件 – Wikipedia

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名古屋アベック殺人事件:事件概要

1988年2月23日未明、大高緑地公園の駐車場に車を停車していた理容師(男性・当時19歳)と理容師見習い(女性・当時20歳)は、突然2台の車に退路を塞がれた。2台の車に乗っていたのは、とび職A(当時19歳)、唯一の成人B(当時20歳)、とび職C(当時17歳)、無職D(当時18歳)、無職E子(当時17歳)、無職F子(当時17歳)の6人であった。

6人は日頃から「バッカン」と称してアベックを襲っては金品を奪っており、この日も名古屋市港区の金城埠頭で2台の車を襲い、計8万6000円余りを奪っていた。勢いづいた6人はさらにデートをしているアベックの車を物色。大高緑地公園の駐車場で理容師見習い所有の車に狙いを定めた。

1988年2月23日午前4時半頃、名古屋市緑区の県営大高緑地公園駐車場で、デート中で車の中にいた理容師・Xさん(19歳)と同僚の理容師見習い・Y子さん(20歳)が、車2台に分乗してきた男女に突然襲われた。
 男たちは木刀や鉄パイプを持ってXさんの車を取り囲み、バールなどでフロントガラスを割り、Xさんを引っ張り出して木刀でメッタ打ちにした。
 女たちははY子さんを車から引きずり下ろし、「裸になれ」と命じ、上半身裸にさせたうえで木刀で殴りつけた。

 この後、男達はY子さんを藪の中へ連れこみ、集団でレイプした。その間、女は車内を荒らし、Y子さんの所持品であるぬいぐるみを奪っている。

 再び、駐車場に連れ戻されたY子さんは男女らにタバコの火を全身に押しつけられた。Y子さんが許しを請うと、女は「ばかやろう。ぶりっ子するんじゃない」と殴った。

「警察に行かれると困るので、連れて行こう」
 午前6時ごろになって、車の通行も目立ち始めたため、1人の男がそう提案した。XさんとY子さんを車に乗せ拉致した。

 翌24日午前4時30分頃、愛知郡長久手町の公園墓地で降ろされたXさんは正座させられ、洗濯用ロープを首に巻きつけられ殺害された。男達はふざけながら、「タバコを吸い終わるまで」と綱引きのように両方から絞めたのである。
 
 一味はXさんの遺体を車のトランクに積みこんだ後もY子さんを連れまわし、名古屋埠頭に来た。ここでY子さんが「外に出たい」と言ったので、見張られながら下車したが、海に飛び込んで死のうとしたところを掴まり、車に連れ戻された。
 その夜は男のアパートに戻り、ここでも男がY子さんを強姦する。

 25日午前2時ごろ、Y子さんを乗せた車は三重県大山田村に到着。男達は遺体を埋めるための穴を掘り始めた。そしてY子さんは、Xさんと同じように殺害された。

名古屋アベック殺人事件:裁判

1989年6月28日、名古屋地裁は、「このたばこを吸い終わるまで引っ張ろう」と話しながら平然と首を絞め続けるなど冷酷極まりないとして主犯Aに死刑、同じく殺害実行者ではあるものの犯行当時17歳であったBには少年法51条の規定により無期懲役、その他の4名の共犯者についてはそれぞれの事情を考慮して有期懲役刑の判決を言い渡した。

AとBはこれを不服として、特にAは「少年法があるから俺は絶対死刑にならない」と公言して、即日控訴した。1996年12月16日、名古屋高裁は一審判決を破棄。Aは「矯正可能性がある」として無期懲役(後に確定)、Bは懲役13年に減刑すると言い渡した。

少年たちのその後:主犯Aの近況

主犯Aの近況については何度か報道されている。月刊現代2006年7月号などに掲載された元弁護人の話によると、Aは刑務所に入所後、遺族に作業賞与金と謝罪の手紙を送り続け、2005年には理容師見習いの父親から「頑張りなさいよ」と書かれた手紙を受け取ったという。

共同通信社の2008年11月29日の報道によれば、Aは1989年の名古屋地裁での判決、つまり死刑判決を受けてから、2人の被害者の遺族へ謝罪の手紙を書き始め、岡山刑務所に収監された1997年以降は作業賞与金(刑務作業に支払われる給与)も添えて送るようになり、2005年3月以降は理容師見習いの父親と文通を行っていると報道された。殺人事件の被害者と加害者の文通は極めて異例であり、修復的司法の試みとされた。
理容師の遺族からの返信はないが、手紙を受け取ってもらえていることは分かっていると報道された。ただしその「遺族」の、理容師との続柄についての記述はなく、どのような関係の人物なのかは2011年1月末現在全く不明である。

少年たちのその後:共犯者たちの出所後

上記の新潮45 2003年10月号記事によると、B、D、E子、F子の4人は既に刑期を終え出所したが、当人及びその親たちも、誰1人として遺族の元を訪れ謝罪した者はいないとのことである。

民事裁判で和解した賠償金も、出所した4人のうちBは出所後すぐ行方をくらませ消息不明で完全未払い。Dも同様に一銭も支払わないばかりか、遺族に自分の居場所を隠したまま結婚し妻子をもうけ平穏な生活を送っているという身勝手ぶりである。E子、F子は一部支払ったもののやはり完済することなく住居を変更し、現住所は同様に遺族に通知していない。

親たちについては、Aの親とE子の親は完済したが、Bの親は最初から親権放棄を決め込んでいたため調停の席にもつかなかった。C、Dの親はいずれも我関せずとばかりに息子の公判に顔さえも出さなかった。B、C、Dの親は全員、無関係であると主張して賠償の支払いを拒否しており、今後もその意思は一切無いという。なお、F子の親は一部未払いである。
 

<塀の中生活21年の元少年>…心に刺さった、母の言葉…
 
岡山刑務所で迎える13度目の冬。所内の工場で、旋盤でトラクターや自動車の部品を加工する日々。指先のあかぎれから血がにじむ。
 名古屋市内の公園で88年2月、少年ら6人が若い男女を襲い殺害したアベック殺人事件で、リーダー格とされ無期懲役が確定した当時19歳の元少年(40)。「塀の中」での生活は21年になった。
 元少年の母(62)は、接見禁止が解け、初めて名古屋少年鑑別所で対面した時の様子を「未成年だから、すぐ帰れるという態度で、アッケラカンとしていた」と振り返る。
 そして、89年6月の名古屋地裁判決は死刑。「反省しているとは思えぬ態度が散見された」と、裁判長は厳しく批判した。
 「もうダメだと思う。交通事故にでも遭ったと思って、おれのことはあきらめてくれ」。判決後、面会に来た母に、元少年は、投げやりな言葉をぶつけた。
 「ばかなこと言うんじゃない。もしお前が死刑になるというなら、悪いけど、こっちが先に死なせてもらう」。肉体的にも精神的にもボロボロ。それでも苦しさに耐えるのは、お前が生きているから--。母の言葉が、突き刺さった。
 <この時に私は初めて、本当の意味で被害者の方やご遺族の方のお気持ちというものを(略)自分なりにいろいろと考えることが出来たのです>
 元少年が友人にあてた手紙である。
 名古屋高裁は96年12月、更生の可能性を認め、無期懲役に減刑した。生と死のはざまで、奪った命の重さと向き合った。
    ◇
 収容されている部屋の前に咲くアイリスのこと、部屋の中に漂ってくるキンモクセイのにおい--。昨年、岡山刑務所の息子から届いた手紙に、今までになく、草花のことがつづられていた。「オジサンになったんかな」。愛知県内に暮らす母は、笑みをこぼした。

岡山刑務所の息子から届いた手紙に手を添える母=愛知県内で、鮫島弘樹撮影
 仮釈放のことは、考えないようにしている。受刑者の再犯を危惧(きぐ)する声が強まり、容易には実現しないと思う。事件にかかわった6人のうち4人は出所したが、遺族に謝罪せず示談金もほとんど支払っていないと聞いた。
 サラリーマンの夫の退職金で、遺族への示談金を支払い終えた。その夫も、6年前に他界した。パート勤めの毎日。「手紙のやり取りができればうれしいという感じです」。06年夏以来、息子には会っていない。
    ◇
 <出口の見えないトンネルの中に入っているようなものです>
 無期懲役の受刑者としての心情を、元少年は友人への手紙で記した。関係者によると、97年1月の判決確定から30年以上たたなければ仮釈放は難しそうだ。
 <どんなに小さな光だとしてもこれからも私はその小さな光をしっかりと見つめて、焦らずに一歩一歩一生懸命に頑張っていきたいと思います>
 確定から30年後の27年。母は81歳になる。長いトンネルを抜けるまで、元気でいてくれることを祈っている。
記者【武本光政】

引用元:毎日新聞 2009年2月21日 より

綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件の全貌

女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、1988年(昭和63年)11月から1989年(昭和64年)1月の間に、東京都足立区綾瀬で起きた猥褻誘拐・略取、監禁、強姦、暴行、殺人、死体遺棄事件の通称である。事件番号は平成2う1058。この事件は、加害者が全て少年(未成年)であったこと、犯罪内容が重大・悪質であったこと、犯行期間も長期におよび、少女が監禁されていることに気づいていた周囲の人間も被害者を救わなかったことなどの点で社会に大きな衝撃を与えた。

引用元:女子高生コンクリート詰め殺人事件 – Wikipedia

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綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件:事件概要

1989年1月、少年ふたりが強姦と窃盗容疑で綾瀬署に逮捕された。
家裁審理中、少年たちは鑑別所に収監されていたが、彼らの家を警察が家宅捜査すると女性の下着などが見つかったので、「これは余罪があるのではないか」ということになり、ふたたび取調べがはじまった。
ところが警察が余罪について軽くカマをかけたところ、少年のひとりがぶるぶる震えだし、
「はい。すいません殺しました」
と頭を下げたので、刑事は仰天した。彼はずっと被害者の死に顔が忘れられず、悪夢にうなされる毎日で、神経は限界まですり減っていたのだ。カマをかけられ、すぐ「あのことだ、ああ、やっぱりバレた」と思い自白してしまったのは自然のなりゆきであった。
これが3月29日のことで、逮捕された少年とは本事件の主犯、AとBである。
少年の自白に従って江東区の埋立地を掘り返したところ、ほどなく死体の入ったドラム缶が発見される。被害者の少女の死体はボストンバッグに詰められ、コンクリートを流しこまれて固められていた。
死体はすでに腐敗しており顔の見分けもつかなくなっていたが、ひどく痩せこけて皮下脂肪が半分近くにまで減っており、頭髪がほとんどなかった。これは長期間なぶられ続けたストレスにより抜け落ちたものであろうと思われた。膣には小瓶2本が押しこまれたままだったという。
被害者の少女は捜索願いの出ていた高校3年生のE子さんであった。4月からの就職先も決まっており、最後の学生生活を楽しんでいた矢先、彼女はいわれもない不幸に襲われたのである。

自白から、少年A(18歳)、B(17歳)、C(17歳)、D(16歳)が猥褻誘拐・略取、監禁、強姦、殺人の容疑で逮捕された。なお彼らは被害者の少女を監禁している間にも、表へ出ては強姦事件を繰りかえしている。4人とも何らかの形での崩壊家庭に育ち、高校を中途退学したのちは職を転々とし、事件当時はシンナーにふけり、暴力団に出入りするなどして過ごしていた。
彼らが本事件の被害者を監禁し、殺害に至った経緯はこうだ。

1988年11月25日の夕方、AとCは「ひったくりか、強姦」か、どちらにしろいいカモを見つけようと思い、原付に乗ってふらふら走りまわっていた。
プラスチック工場でのアルバイトから自転車で帰る途中だったE子さんは、そうしてまったく偶然に彼らに目をつけられることとなる。
AはCに「あの女にしよう。おい、おまえちょっと蹴飛ばしてこい」と命令。Cが原付で近寄っていき、E子さんを力まかせに自転車ごと溝に蹴落とした。
Cが逃げ去ったのを確認するとAは彼女のもとに駆けより、手を差しのべて溝から立ち上がるのを助けてやった。
「大丈夫? あいつさ、頭おかしいんだよ。俺もさっき蹴られたんだ。また戻ってくるかもしれないから、送ってってやるよ」
と優しく微笑した。ナイト役登場、というわけである。陳腐な手だが、現実におびえている少女を騙すにはいい手なのだろう。Aは彼女を原付の後ろに乗せ、彼女の家ではなく人気のない倉庫に連れこんだ。
そこでAはやおら豹変し、
「じつは俺はさっきの奴の仲間で、前からおまえを狙ってたヤクザだ。俺は幹部だから、いうことを聞いてりゃ命だけは助けてやる」
と言って脅した。Aはすくみあがる彼女をホテルに引きこみ、強姦した。

ホテルからAはC宅へ電話した。C宅は仲間たちの溜まり場だったので、そのとき部屋にはB、Dもいた。Aが、
「いま女をひとりやったとこ」と言うと、Bが、
「マジっすか、俺もやりたいから、帰さないで下さいよ」と言った。
それを聞いたAは真に受け、B、C、Dを呼び出して待ち合わせると、E子さんを遠くから見せて、
「どうだ、あの女。どうする?」と訊いた。
「さらっちゃいましょうよ」
とBが答えたことから、Aは彼女をこのまま家に帰す気をなくす。E子さんがこれから41日間にわたる監禁生活を送った発端は、こんな簡単な会話によってであった。

「おまえはヤクザに狙われてるんだ。俺はおまえを売り飛ばせと命令されてたんだけど、可哀相だから助けてやることにした。おまえの家のまわりはヤクザがうようよいて危ないから、かくまってやる」
と言われ、なすすべもなくE子さんはC宅に連れていかれた。この日からE子さんはそのまま彼らの監視下に置かれることになる。
11月28日、不良仲間ふたりが新たにC宅に来訪。Aは彼らにもE子さんを「ごちそうしてやる」と言い、必死に抵抗するE子さんを押さえつけて輪姦させた。性交後、彼らはE子さんの陰毛を剃りおとし、膣に火のついたマッチを突っ込んで、彼女が熱がるさまを見て笑い転げた。
12月2日あたりから、彼らの行為は性的暴力から肉体的暴力に移行していく。つまり殴る蹴る、焼く、などの暴力になっていくのである。
こんな状況をCの両親が気づかなかったはずはない。Cの父親は息子たちが外出した際、妻に「二階がどうなってるか心配だから、見てきてくれない」と頼まれ、これを断っている。また母親は「あの女の子は仲間の不良少女だと思っていました。帰るよう、さとしたこともあります」と証言しているが、「まったくわからなかった」というのはどう客観的に見ても有り得ない話だ。呻き声、悲鳴、少年たちの怒声など、階下に響かなかったわけがない。実際のところはCの暴力がこわいのと、世間体のために押し黙っていたに過ぎないだろう。
 
E子さんは彼らの仲間内で、「カンキンオンナ」と呼ばれていたという。仲間の暴走族連中が集まった際など、ナンパしにいこう、と言い出した者に、Aは
「ナンパなんかすることねえよ。いま、ひとり監禁してるんだ。よかったら来いよ」
と公言していたらしい。
Cもまた、「俺の家に面白いのがいるんだよ。家に来たらやらしてあげる」
と、あちこちで言っていた。
過度の輪姦により被害者は気を失うこともあったが、少年たちは彼女にバケツの冷水を浴びせ、また犯していたというから異常というより他ない。
そして、最終的には100人近くがこのことを知り、裁判記録に出ているだけで10人近くが強姦等に参加したことになる。あるときなど暴走族の女が面白がって、「化粧してやる」と言ってE子さんの頬にマジックペンで髭を書いたこともあった。
「なんでもするから家に帰して」と哀願する彼女に、彼らは自慰をさせたり、全裸にして「きちがいの真似をしろ」と強制。直径3センチほどもある鉄棒を性器に挿入し何度も出し入れしたあげく、その膣を灰皿代わりに使用した。

12月初め、彼らはE子さんに自宅へ電話させ、「大丈夫だから探さないで」と言うよう強要する。
同月上旬、E子さんが隙を見て警察に通報しようとしたのを発見し、少年たちは激怒した。彼女を殴る蹴るし、ライターで足をあぶって火傷させたり、無理にシンナーを吸引させたりして暴行した。
このあたりから、彼女に加えられる暴力はタガがはずれたようになりはじめる。
12月12日、E子さんは部屋にいた監視役のFに「私はどうなるの? 家に帰れるの?」と問うている。しかしFはそれに対し、「自分はしたっぱだから、わからん」とそっぽを向いた。
これ以降、被害者が受けた暴行は数限りない。全裸でステレオの曲に合わせて踊らせ、全員でいっせいにシャウトの部分で腹を殴る。痛い、と口にするとまた殴られるので彼女が顔を歪めると、Cは「この顔が面白いんですよね」と笑った。
また、肛門に瓶を挿入したり、酒を一気飲みさせたり、雪のちらつく寒い夜に裸でベランダに追い出したり、煙草を一度に2本吸わせ、むせる様子を見て愉しんだりした。
火傷のあとにライターのオイルをかけて点火し、彼女が「熱い、熱い」と言って火を消そうとするのを面白がり、何度も繰りかえしたともいう。E子さんは「もう殺して」と泣いて哀願した。

この頃からE子さんはろくに食事も与えられなくなった。たいてい1日に牛乳1本。たまに気が向くと食パンを1枚食べさせる程度で、連日の暴行と栄養不良により、E子さんはどんどん衰弱し、トイレに行くにも階段を這っておりる有様だった。が、そのうちそれもできなくなり、牛乳パックに排尿するようになった。

連日の殴打に、あるときE子さんが失禁。座布団が汚れたといってまた殴打された。BはE子さんの別人のように腫れあがった顔を(「頬が鼻の高さまで腫れあがり、目の位置が判別できないほど」だったという)見て、「なんだおまえ、でけえ顔になったな」と言って笑った。
翌日、「面白いから、Aにもこの顔を見せてやろう」とその場にいなかったAを呼び出すと、Aはその変わりように驚いたものの、「なぜか負けまいという気になって」自分も殴打。火傷あとに幾度もオイルをかけては焼いた。
また「おまえはそろそろ殺そうかな、いや、やっぱりやめた」などと彼女を一喜一憂させたり、答えられない質問をわざとぶつけて責めたりなどして、精神的にも追いつめている。この時点から、E子さんの表情から感情の波が消えつつある。肉体的にも精神的にも、もう限界を越えていた。

12月下旬、E子さんはもはや牛乳をわずかに飲みくだすのがやっとの状態になった。一日中寝ているだけで身動きもできないほど衰弱し、顔面は腫れあがり、火傷あとは膿みただれた。もちろん風呂にも入れていないしトイレにも行けないから、膿と垢と尿の悪臭で、彼女はもう完全に少年たちの性欲をそそる存在ではなくなった。
ここに至って彼女は完全に「邪魔」になる。そこにもう人間としての尊厳はない。ただの「モノ」であり、「汚物」であった。

1989年1月4日、Aは賭け麻雀に大負けして不機嫌だった。このまま家に帰ってもつまらないので、B、C、Dと合流することにした。なおC宅にはE子さんがいるので、このとき彼らはD宅にたむろしていた。
D宅でちょっとファミコンをして遊んだが、麻雀で負けた鬱憤は晴れない。そこでAは、
「ひさしぶりに、カンキンオンナをいじめてスカっとするか」
と言って、全員を誘ってC宅に向かった。
E子さんはCの部屋で、身動きもできずに仰向けに寝ていた。少年たちは彼女に「Bを呼びすてにした」と因縁をつけ、殴る蹴るしはじめた。
Aは蝋燭を持ち出すと、彼女の顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てた。E子さんは最早ほとんど反応を示さず、されるがままであった。
さらにAはE子さんが牛乳パックに排出した尿を無理に飲ませている。B、Cは彼女の顔面を回し蹴りし、E子さんが倒れると無理やり引き起こして、さらに蹴りつけた。E子さんは身を守ろうとする体力もなかったので、そのまま転倒して室内のステレオにぶつかり痙攣を起こした。
Aはそれを見て「仮病だ」と激昂。
「てめえ、俺の前で仮病使うのか」
そう怒鳴ると、いっそう激しく殴打した。E子さんが鼻血を出し、手足のただれた火傷から血膿がにじみ出たため、「汚い」と言って、自分たちの拳をビニール袋で覆ってからまた殴った。
部屋にはキックボクシング練習器があったので、しまいにはその1・7キロもの鉄球を使って殴った。AはこのときになってもまだE子さんの体にオイルをかけて焼いている。が、彼女はわずかに手を動かして火を消すような仕草をしただけで、そのうちぐったりして動かなくなった。
2時間にもわたる暴行の末、彼らは「飽きて」部屋を出、サウナに行っている。
 
1月5日、彼らは見張りに残していたFから、E子さんが死んだという連絡を聞いた。死体の始末はどうしようということになり、Aが以前タイル工として勤めていた会社からセメントを調達し、ドラム缶に死体を入れてコンクリートを流し固めた。ドラム缶は江東区の工事現場まで運び、そこに投げ捨てた。
そして、この死体は3月29日になるまで、発見されず放置されることとなる。

警察が逮捕状を持ってC宅に捜査に訪れると、Cの両親は最初のうち抵抗したが、やがて諦めて「弁護士立会いのもとでなら」と中に捜査員を入れた。Cの部屋は壁、床はもちろん、天井にまで被害者の血が飛び散っていたという。捜査員のひとりは、
「人をただ殴っても天井に血はつかない。だらだら血を流している人間の顎をさらに殴り上げるようなことをなんべんも繰りかえしたのだろう」と語った。

この事件が報道されるや、マスコミは争って報道し、国民は少年犯罪のレベルが「ここまで来たのか」と慄然とした。
Cの両親は共産党党員だったので、当初「赤旗」に両親の談話と擁護記事が載ったが、やがて事件の詳細が知れるや、両親は離党し、同新聞には「この事件は日本共産党とはいっさい関係ありません」という一文が掲載された。
写真週刊誌は被害者の水着写真などを載せ、ひどいときには被害者のことを「不良だった」、「加害者たちにナンパされ、ほいほい付いていった」、「加害者の仲間だったが、いじめがエスカレートしただけ」と報道した。中山千夏をはじめとするフェミニストがこれに激昂し「報道のセカンドレイプだ」と抗議。『彼女の悔しさがわかりますか』という本を出版した。
マスコミにもっとも責められたのは勿論、監禁場所を「提供した」と言われるCの両親であるが、特にCの母親が裁判で、
「あの子には家に帰るようすすめました。でもあの子が『いいです』と言ったんです」と証言し、
「脅されていたんでしょう」と検事が突っ込むと、
「認識の違いで、申し訳ありません」
と答えたり、さしたる脈絡もなく「あの女の子は煙草を吸っていた(被害者が喫煙者であったかどうかは未確認。本件とはどちらにしろ関係はない。ただ、「煙草を無理に2本吸わせる」ことを少年たちがいじめの手段として使っていたところからみて、可能性は薄いと思える)」などと言ったりしたことが批判された。のちにCの両親はこの批判的な報道に怒り、弁護士を通じて抗議している。
 
公判でAは、
「いま思えば、人間だと思っていなかったですけど、そのころは、そういう人間とか、そういうものも考えてなかったです。死んでいるのを見ても、ああ、やっぱりこれがあいつの運命だったんだなぁと思った」と証言。
同じくDは、
「やってるときは、何も思ってないです。(そして、やり終わったあとも)思ってないです」と証言した。
また弁護士の伊藤芳朗氏は、公判で少年Bを担当した一人だが、
「初めて接見した時、Bは『彼女はかわいそうだったけど、遊んでやったんだからいいじゃない』と開き直っていました」と述べている(もちろん、その後改心し自分の罪に気づいた、という描写がつづく)。
E子さんの母親は少年たちの証言を聞いて激しく動揺し、精神科に頻繁に通院して投薬してもらわねばならない精神状態に陥った。

1990年7月、東京地裁の判決はAが懲役17年、Bが懲役5~10年、Cが懲役4~6年、Dが懲役3~4年。検察側は控訴した。
1991年7月、高裁はAに懲役20年、Bに懲役5~10年、Cに懲役5~9年、Dに懲役5~7年を宣告。また監視役のFを含めた3人を少年院送致とした。

蛇足を承知であえて後日談として記すが、少年法改正について語るという目的で2000年11月28日に放送されたニュースステーションに、Fと、Dの母親が後ろ姿で出演した。
この時点でFは結婚して娘がおり、Dは出所後、自閉的な引きこもりとなって母と姉(事件当時Aの彼女だった)に生活の面倒をみてもらっていた。
放送後、番組掲示板に書き込まれた意見は、7割近くが番組とF、ならびにDの母親の現態度に対する批判だった。
Fに対する批判の内容は主に、彼が淡々と「反省している」と口にしたそばから
「やれと言われて、こわくてやった。仕方なかった」
と言ったこと、他人事のようになめらかな口調で事件の詳細を語ったことや、また「よく平気で結婚し子供を作れたものだ」という意見も多く見受けられた。だが総じて「常識人として極めて正常な反省の言を述べていたようだが、あまりに正論、奇麗事に過ぎ、正直、彼の本当の気持ちなのかどうか疑わしい」という意見が大多数であったようだ。
Dの母親は、
「息子とはほとんど顔を合わせない。事件のことも話さない。まだあの子は事件と向き合う時期に来ていない」、
「どんな形ででも親は子供に生きていてもらいたいですから、私の死後はお姉ちゃんにあの子の面倒をみさせます」、
「遺族の方には謝りに行こうと思ったんですが、拒否されると聞きましたのでやめました」
などの意見が多く非難され、「子供を更正させようという気がまったく感じられないし、親としての事件への反省も見られない」という書き込みが多かった。

なお、主犯Aを除いては全員が出所している。Aの釈放は2008年前後であろうと言われているが、確かなことはわからない。