Post

高知大学探検部地底湖行方不明事件

平成20年1月5日、岡山県新見市にある鍾乳洞「日咩坂鐘乳穴(ひめさかたちあな)」に入っていた高知大学3年で学術探検部所属の名倉祐樹さん(当時21歳)が、洞窟内の地底湖を遊泳中に行方不明になった。名倉さんは中国・四国地方の大学探検サークルのコミュニティーで企画された合宿に、高知大学学術探検部員3名(計4名)と共に参加。合宿には他大学や社会人を合わせて計13名参加していた。
日咩坂鐘乳穴には5名(構成不明)のグループで入る(必要な市教育委員会への入洞届は出されていなかった)。腹ばいになる狭い箇所やザイルを使って降りる場所を通って、約3時間後に入り口から1.6㌔ほど奥にある地底湖(直径約25㍍・水深約30㍍)へ到着した。
到着後、名倉さんが一人で着衣のまま命綱などもつけずに調査の為に地底湖に入ったらしい。当然のことながら一人で、安全対策もせずに調査名目で地底湖に入ったことに疑問が示されている。
合宿の恒例イベントとして地底湖で泳ぐというものがあったとの情報もあるが、確認はとれていない。メンバーは当初声を掛けながら岸壁などを調査していたが、突如名倉さんの声が途絶え行方がわからなくなった。行方が分からなくなるまでの間、叫び声などは聞こえなかったという。残りのメンバーは洞慌てて窟を出て救助を要請した。

3f4e20b6 【閲覧注意】日本国内で起こった不気味な未解決事件まとめ 完全版 Post

しかし調査が始まるとたちまち胡散臭さが漂い始める。
登山部などでは部長が隊長格として事故の記者会見に応じるのが常識だが、探検部長の白米美帆は記者会見などから逃げ回り一切の責任を放棄する行動を見せた。さらに探検部のホームページから部長白米美帆と副部長の伊藤智子の名が真っ先に削除される。極めつけはまだ捜査中にもかかわらず名倉さんのmixiが何者かによって削除されてしまう。結局名倉さんの遺体は見つからず捜査は打ち切られたが、もちろん削除したのは本人ではなくパスワードを知る知人の仕業であろう。

地底湖は入口から片道3時間もかかる奥地にあり、洞窟の幅も人1人がやっと通れる狭さで途中には首まで水につかる難所もあったようだ。そのため捜査は難航を極め、地元消防も早々に捜査を断念した。しかもこの地底湖は水面にもやがかかっていて水も白濁しており、潜るとほとんど視界が利かない状態であった。そんな場所でなぜ名倉さんは泳がなければならなかったのか。まして季節は1月であり、地底湖の水温が多少高いとしても泳ぐという発想そのものが考えにくい環境である。

名倉さんとともに入洞した人間の数も5名から4名、13名と報道のたびに訂正され、さらに探検に必要な装備は整えていたという発表がなされたにもかかわらず命綱はあったのかという簡単な質問にも全容の解明のためお応えできないという回答であった。

2chで盛り上がりを見せるまさにその時、名倉さんのmixiが改ざんされ全公開から友人までの公開に変更、そして名倉さんの日記が全削除された。おそらく日記になかに洞窟のなかで酒宴をひらいたり、ケーキを食べたなどの記述を消したかったのだろう。このため2chでの関心が一気に加速。さらに高知大学探検部OBを名乗る者が、遊泳は探検部の伝統だった。酒にからんだ様々な危険な伝統が以前から存在したなどの暴露が行われる。炎上に伴い探検部員と見られる書き込みが相次ぎ内部抗争、というか痴話げんかのようなやりとりも見られる。この暴露により探検部の部長副部長が女性であるなど、男女関係の確執により殺されたのではないかという疑惑が浮上した。
しかし事故として捜査が断念された今、すでに事件は確定しており今後真実が明らかになることはあるまい。

悪魔の詩訳者殺人事件

Univoftsukuba2006-700x525 【閲覧注意】日本国内で起こった不気味な未解決事件まとめ 完全版 Post

1991年7月11日、筑波大学助教授の五十嵐一助教授(当時44歳)が、筑波キャンパス人文・社会学系A棟7階のエレベーターホールで刺殺され、翌日7月12日に発見された。現場からO型の血痕(被害者の血液型ではないため、犯人の血液型とされた)や犯人が残したとみられる中国製カンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかった。第一発見者は早朝出勤したばかりの清掃員の女性である。五十嵐助教授は7階のエレベータホールで首を切断寸前までかき切られ、あたり一面を血の海にして倒れていた。所持していた鞄にもいくつか傷痕があった。
事件が日本だけに限らず世界にも衝撃を与えたのは五十嵐助教授がイスラム社会から禁書とされていた小説「悪魔の詩」の翻訳者だったからである。悪魔の詩はインド系イギリス人の作家サルマン・ラシュディによって1989年1月に発売されたものだが、その内容にイスラム教を冒涜するものがあるとしてイスラム圏では焚書が相次いだ。問題となったのは主人公が見る夢の中で預言者ムハマンドが神の言葉を記したコーランに悪魔の言葉が混じっていたということ。この言葉が悪魔の詩というわけである。そしてムハマンドの12人の妻の名前と同じ12人の売春婦が登場するなど、全体的にイスラム教を揶揄するような内容が含まれていたからである。

発売から一ヶ月後、イランの最高指揮者ホメニイ師は著書のラシュディ氏と出版に関わった者に対し死刑を宣告した。イスラムでは宗教指導者による布告をファトワといい、法律と同様に扱われる。ホメイニ師の出したファトワによって、作者処刑の実行者には、280万ドル当時のレートで約3億6000万円もの賞金があたえられることとなった。しかも同年の6月にホメイニ師が死去したため、布告した本人にしか取り消せないファトワは撤回することができなくなっていた。
悪魔の詩・日本語版は90年に出版された。同時に訳者となった五十嵐助教授は著作「イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ悪魔の詩を訳したか」の中で、悪魔の詩は優れた文学作品で、イスラムを冒涜するものではないとして翻訳に踏み切ったことを記している。自分自身が処刑の対象になっていることを自覚しながら「ホメイニ師の死刑宣言は勇み足であった」「イスラムこそ元来もっと大きくて健康的な宗教ではなかったのか」とファトワを批判している。そして作者のラシュディ氏が警察の保護下で潜伏生活を強いられたのに対し五十嵐教授は周囲を警戒することなく平穏な日々をすごしていた。自分は翻訳したにすぎず、遠い日本にまで処刑の手は及ばないだろうという気の緩みがあったのかもしれない。一方でそれは長年イスラム文化と親しんできた助教授なりのイスラム教への信頼であったのだと言える。ところがイスラム系の新聞は、五十嵐助教授殺害のニュースをイスラム教徒にとっての朗報と伝えている。また、イランの反体制派組織「ムジャヒディン・ハルク」が犯行声明を発表。イスラムを愛した日本人の死が歓迎されたのである。

q?_encoding=UTF8&ASIN=4787790013&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=qtc99-22 【閲覧注意】日本国内で起こった不気味な未解決事件まとめ 完全版 Post

福島県田村市石井舞ちゃん行方不明事件

1991年7月25日、福島県船引町で建築業を営む石井賢一さんの長女・舞ちゃん(当時7歳)が深夜、家から行方不明となった。事件から10年以上経った今も発見につながる情報はない。この夜、家には賢一さんと妻ヨシ子さん、夫妻の長男、次男、舞ちゃん、それから賢一さんの両親、賢一さんの姪(当時17歳)、そして賢一さんの建築会社の従業員で姪の恋人のK(当時20歳)の9人の他、ヨシ子さんの友人の子供2人(女の子)が泊まりに来ていた。

昼過ぎ、姪は実家のある郡山市に出かけており、その後家にはいなかった。
夕方、Kの部屋で舞ちゃんたちはテレビゲームをして遊んでいた。
午後9時ごろ、舞ちゃんの祖父母は1階洋間のKの部屋の電気が消えるのを見た。また、同じ頃、2階の部屋で賢一さんは長男・次男が寝始めた。
9時20分頃、祖父母はタクシーを呼んで、カラオケスナックに行った。この時、1階玄関を施錠した。
9時30分ごろ、舞ちゃんと遊びに来ていた2人の女の子の3人が川の字となって、2階の洋間で寝た。両親や兄弟の眠る隣の部屋である。
10時30分頃、ヨシ子さんが舞ちゃんの寝ている部屋をのぞき、タオルケットを掛け直した。その後、2階の洗面所を使っていると、「バタン」と1階の玄関扉が閉まる音がしたので、窓から外を見るとKが南の方に歩いていくのを目撃した。ヨシ子さんはたいして気にも留めず、1階にある浴室で入浴した。しばらくすると、再びドアの閉まる音がして、何者かが「パタパタ」と階段を上がる音がした。そしてヨシ子さんは賢一さんや長男らの眠る部屋に行き、横になった。
翌午前2時、祖父母がカラオケスナックから帰ってくる。この時、1階の玄関のドアは開いていたので施錠した。祖父母は2階にやってきて「Kがいない」と賢一さんを起こすが、「明日聞くから」とまた寝てしまった。
午前5時20分、舞ちゃんと一緒に寝ていた子供が目を覚ますと舞ちゃんの姿がなかった。一家、パニックとなる。
午前6時30分、Kが外出先から戻ってくる。Kの話によると「夜10時半ごろ、友人に会うため郡山に向かった。船引駅に着くと、最終電車が出たばかりだったので、タクシーを拾って行った。しかし、郡山にその友人は現れず、始発で帰ってきた」というものだった。
Kはその後、2週間に渡る取り調べを受けることになったが、解放されている。ちなみに郡山までKを乗せたというタクシー運転手も現れ、証言した。

佐賀女性7人連続殺人事件(「水曜日の絞殺魔事件)

佐賀女性7人連続殺人事件とは、佐賀県内で75~89年に佐賀県で7人の女性が殺された事件。その内、6人が水曜日に失踪している事から「水曜日の絞殺魔事件」とも呼ばれる。
89年、被害者の1人の元交際相手で、覚せい剤法違反で鹿児島地裁に服役していたMが殺害を一時供述するが、証拠不充分で逮捕は見送りとなった。
02年6月、Mがまもなく北方町で発見された3人を殺害した容疑で逮捕された。
05年5月10日に佐賀地裁で無罪判決が言い渡されている。

1975年から1989年までに、佐賀県北方町、白石町、北茂安町、武雄市の半径20キロの地域で7件もの女性の殺人事件が発生した。事件の特徴として、以下の点があげられている。
被害者女性の失踪が水曜に集中していること
夕方から夜にかけて失踪していること
5件の死因が絞殺であったこと(残り2件は、白骨化しており死因が不明)
4件目までは、捜査機関が犯人を起訴できずに公訴時効が成立。残り3件は起訴されたが、無罪が確定し、7件とも未解決事件となった。

7人の女性の失踪・発見の詳細
1975年8月27日(水)、北方町に住む当時中学1年生であったY(当時12歳)が、1人で留守番していた自宅から失踪。1980年6月27日に白石町の小学校プール横トイレの便槽の中で遺体で発見された。
1980年4月12日(土)、白石町に住むH(当時20歳)が、1人で留守番していた自宅から失踪。約2ヶ月後の6月24日、町内にある小学校の便槽から遺体で発見された。本件のみ、水曜日ではない。
1981年10月7日(水)、白石町に住む近くの工場の従業員であったI(当時27歳)が失踪。同月21日に中原町の空き地で絞殺遺体で発見された。
1982年2月17日(水)、北茂安町の小学5年生A(当時11歳)が下校途中に何者かに首を絞められ殺害され、翌日に絞殺遺体で発見された。
1987年7月8日(水)、武雄市の飲食店従業員H(当時48歳)が失踪、1989年1月27日に北方町大峠の崖下で遺体で発見された。以下の2件の遺体も同時に発見されており、3件をまとめて「北方事件」と呼んでいる。
1988年12月7日(水)、北方町の主婦N(当時50歳)が失踪。
1989年1月25日(水)、北方町の会社員Y(当時37歳)が失踪。

パラコート連続毒殺事件

パラコート連続毒殺事件(パラコートれんぞくどくさつじけん)とは、1985年(昭和60年)4月30日から11月17日の間に日本各地で発生した、主にパラコートを用いた無差別毒殺事件。全て未解決。当時監視カメラもなく、物証もほとんど残っていなかったため、犯人は逮捕されないまま迷宮入りした。なお同一人物による犯行だったのかどうかは不明である。

全国各地の自動販売機の商品受け取り口に、農薬を混入したジュースなどが置かれていた無差別殺人事件。毒物の混入された飲料を置き忘れの商品と勘違いさせる手口が使われ、当時のキャップは現在と違って見た目では一度あいたものかどうか区別することが困難だった。またパラコートは除草剤で当時24%濃度の液剤が市販されており、18歳以上で印鑑さえ持っていけば農協などで買うことができた。使われたのは、オロナミンC6件、コーラ2件、リアルゴールド2件、不明2件。毒物はパラコートが多いが、1件のみジクワットが使用されている。

パラコートは除草剤。当時24%濃度の液体|液剤が小売|市販されており、18歳以上で印章|印鑑さえ持っていけば農業協同組合|農協などで買うことができた。致死量は15CC。

井の頭公園バラバラ殺人事件

idaifhwuifdwcs-700x468 【閲覧注意】日本国内で起こった不気味な未解決事件まとめ 完全版 Post

1994年4月23日午前、東京都三鷹市にある井の頭恩賜公園のゴミ箱にポリ袋に入った人間の足首が捨てられているのを、猫の餌を探すため偶然ポリ袋を開けた清掃員の女性が発見した。
駆けつけた警察官らが公園一帯を捜索したところ、計27個に切断された手足・胴体の一部が袋に入って7か所のゴミ箱から発見された。袋は小さい穴のある水切り用の黒い袋と半透明の袋の二重になっており、漁師らが使う特殊な方法できつめに結ばれていた。
手足の指紋はほぼ全て削り取られていたが、わずかに残っていた指紋とDNAから、被害者は公園の近くに住む一級建築士の男性(当時35歳)と判明した。死因は不明。肋骨の筋肉繊維にわずかな生前出血の跡があった。
この事件について、目撃証言などから怨恨説や後述の事故遭遇説、遺体の状態が複数人による組織的な犯行や異常性を匂わすことから宗教団体関与説など様々な説が錯綜していた。しかし、被害者の交友関係からは全く犯人像が浮かばず、また、犯人に結びつく物証や情報が乏しく、2009年4月23日、犯人の特定に至ることなく公訴時効成立を迎えた。犯人の動機など不明な部分が多い事件である。

北関東連続幼女誘拐殺人事件

1979年以降、4件の女児誘拐殺人事件と関連が疑われる1件の女児連れ去り事件(失踪事件)が栃木県と群馬県の県境、半径20キロ以内で発生しており、これら5事件まとめて「北関東連続幼女誘拐殺人事件」とされている。また、5つの事件はいずれも現在の群馬県太田市及び栃木県足利市のどちらかで発生しているが、そのうち、足利市内を流れる渡良瀬川周辺で遺体が発見された3事件は「足利連続幼女誘拐殺人事件」ともされている。
これら事件の特徴として、以下の点が共通点としてあげられている。
被害に遭ったのが4歳から8歳までの児童である点
3事件においてパチンコ店が行方不明の現場になっている点
3事件において河川敷で死体遺棄されている点
4事件において金曜、土曜、日曜および祝日に事件が発生している点
また、これら5事件全てが未解決事件となっており、犯人特定・犯人逮捕には至っていない。

日本テレビの報道特別番組『ACTION』や『バンキシャ!』で、記者の清水潔が「4件の誘拐殺人事件に加え、1996年に起きた太田市の女児連れ去り事件は連続事件なのではないか」とする観点から、2007年1月から報道を続けている。同番組では、足利事件の被疑者とされていた男性が1991年に逮捕されて身柄拘束中であるにもかかわらず、その5年後に類似事件である「太田市パチンコ店女児連れ去り事件」が発生したことから、「足利事件の解決」が不自然であるとし逮捕された男性は冤罪の可能性があるとしてキャンペーン報道を展開。DNA型再鑑定の必要性を訴え続け、再鑑定が実施されたところ真犯人と男性のDNA型は一致せず釈放となった。2010年3月に再審により、男性の無罪が確定した。
2010年、足利事件の検証を行った最高検察庁は、足利事件を含む北関東で起きた事件が同一犯における連続事件の可能性を認めた。犯人が逮捕されない今、再犯の可能性が危惧されている。

一連の誘拐殺人事件

1979年の殺人事件
1979年8月3日(金曜)、栃木県足利市の5歳女児が自宅近くの八雲神社境内で遊んでいるうちに行方不明となる事件が発生。6日後の8月9日、渡良瀬川近くでリュックサック詰めで全裸のまま遺棄されている女児の遺体が発見された。リュックサックは市内の業者の特殊仕様によるもので数十個しか売られていなかった。
1984年の殺人事件
1984年11月17日(土曜)、栃木県足利市の5歳女児がパチンコ店から行方不明となる事件が発生。1986年3月8日に自宅から1.7km離れた場所で白骨死体として発見される。
1987年の殺人事件(群馬小2女児殺害事件)
1987年9月15日(火曜、祝日)、群馬県新田郡尾島町(現:太田市)に住む小2女児(8歳)が子猫を抱いて自宅近くの尾島公園へ遊びに出かけたまま行方不明に。翌年の11月27日、利根川河川敷で白骨死体の一部が発見された。尚、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人の宮崎勤は1989年3月11日、朝日新聞本社と宮崎が1988年8月22日殺害した被害者の両親の自宅に「今田勇子」名義で告白文を送っているが、その告白文で群馬小2女児殺害事件について触れられている。このため、この事件に関して宮崎の関与が疑われたが立件はされず、2002年9月15日に公訴時効が成立。
1990年の殺人事件(足利事件)
1990年5月12日(土曜)、栃木県足利市の4歳女児がパチンコ店から行方不明となる事件が発生。5月13日に渡良瀬川河川敷で全裸のまま遺棄された女児の遺体が発見された。1991年12月2日、DNA型鑑定結果が犯人と同一人だったことを理由に、同市内に住む当時幼稚園バス運転手だった男性が逮捕され、2000年7月17日に無期懲役の判決が確定する。しかし、当時のDNA型鑑定は精度が低いことが指摘され、2009年5月に再度DNA型鑑定を実施した際、「男性と真犯人は同一人物ではない」という結果が出たため、同年6月に刑の執行が停止し、釈放された。2010年3月26日、再審で男性の無罪が確定した。清水潔による報道の過程で、河川敷で被害者を連れて歩く真犯人の姿が目撃されている事実が判明している。

関連が疑われる失踪事件

1996年の失踪事件(太田市パチンコ店女児連れ去り事件)(群馬県警による呼称は太田市高林東町地内パチンコ店における幼女略取誘拐容疑事件)
1996年7月7日(日曜)、群馬県太田市の4歳女児がパチンコ店から行方不明となる事件が発生。この事件は女児の行方が発見されていないため、失踪事件となっている[6]。一連の女児誘拐殺人事件でも2件はパチンコ店からの行方不明となっており、連れ去りの手口が類似していること、この事件の発生現場であるパチンコ店の防犯カメラ映像に映っていた男が、足利事件発生時に目撃された男と似ている点などから関連性が疑われている。尚、当事件には被害者の発見または被疑者の検挙につながる情報に600万円の懸賞金(捜査特別報奨金300万円、地元の遊戯団体による謝礼金300万円)が用意されている。

世田谷一家殺害事件(上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件)

2000年12月30日午後11時頃から翌31日の未明にかけて、東京都世田谷区上祖師谷3丁目の会社員宅で、(当時44歳)・母親(当時41歳)・長女(当時8歳)・長男(当時6歳)の4人が殺害された。隣に住む母親の実母が31日の午前10時40分過ぎに発見し、事件が発覚した[1]。
この事件は、20世紀最後の日に発覚した、大晦日に差し掛かろうとする年の瀬の犯行だったことや、犯人の指紋や血痕など個人を特定可能なもの、靴の跡(足跡)の他、数多くの遺留品を残している点、子供もめった刺しにする残忍な犯行、さらに殺害後に長時間現場に留まった可能性が指摘され[注 1]、パソコンを触ったりアイスクリームを食べたりするなどの犯人の異常な行動、これらの多くの事柄が明らかになっていながら、犯人の特定に至っていないことでも注目される未解決事件である。また、年の瀬に発生した殺人事件という時期柄もあって、一年を振り返る区切りとなる年末近くになると、警視庁による情報公開が行われ、マスコミが話題に取り上げることが多い事件である。

長岡京殺人事件(京都長岡ワラビ採り殺人事件)

1979年5月23日、長岡京市内にあるスーパーでパートをしていた主婦2人が、仕事終了後、近くの山の竹林にワラビ採りに行ったまま消息不明となり、2日後の25日、山頂付近で遺体となって発見された。
直接の死因は主婦A(当時43歳)が絞殺、主婦B(当時32歳)が刺殺。2人のリュックには、それぞれ空の弁当箱、採ったワラビ、財布が入ったままであった。検死の結果、死亡時刻はどちらも正午過ぎから2時半までと判明。
どちらも金を奪われた形跡はなかったが、主婦Aの衣服のポケットから
“ オワレている たすけて下さい この男の人わるい人 ”
と鉛筆で走り書きをした、勤務先のスーパーのレシート(日付は事件当日より2日前)が発見される。だが、どちらの荷物にも衣服のポケットにも、この鉛筆がなかった。後日の捜索で、殺害現場から少し離れたところで芯の先端だけが見つかっているが、鉛筆そのものは見つからなかった。
主婦Aは全身30箇所以上も殴打され、肋骨が折れて、肝臓が破裂しており、体内からは犯人のものと思われる体液が検出された。主婦Bは全身50箇所以上も殴打され、包丁が体に突き刺さったままだった。なお警視庁の鑑定結果によると、犯人の血液型はO型と判明している。犯行現場は、殺された主婦たちのように、ピクニックがてら山菜採りに地元の人が訪れているようなところだったが、犯行発生前から木や竹が生い茂り、昼間でも薄暗いところが多く、レイプ事件も発生していた。遺留品は主婦Bの遺体に突き刺さっていた包丁1本のみで指紋は検出されず、販売ルートも解明されずじまいだった。そして、有力な手がかりも得られないまま、1994年5月24日に公訴時効が成立した。

福島女性教員宅便槽内怪死事件

平成元年2月28日の18時ごろ、村内の小学校に勤める女性教員のAさん(23)が、
住まいとしている小学校に隣接した教員住宅に帰宅し、トイレに入って何気なく中を覗くと靴のようなものが見える。
(※靴のうち1足が頭部付近にあった。もう一足は自宅付近の土手で発見された)
驚いて外の汲み取り口へ周ると蓋が開いていて、中を覗くと人間の足が見える。
Aさんはすぐに教頭先生ほか同僚の教員を呼び、同僚の先生が警察へ通報した。
まず近くの駐在から警官が駆け付け、続いて村の消防団員と三春署員が到着した。
署員らは便槽から中の人物を引っ張りだそうとするが狭くて出すことができず、
周りを重機で掘り起こし、便槽を壊してどうにか出すことができた。
(便槽は後にSさんの父親が復元して保存している)
便槽の中の人物はすでに死亡していた。遺体は真冬というのに上半身裸で、
着ていた上着を胸に抱えて膝を折り、顔をやや左に傾けた形で固まっていた。

遺体はその場でホースの水で洗われ、さらに運ばれた消防団の詰所で洗われ、医師による検案が行われた。
検案で死因は「凍え兼胸部循環障害」と判定された。狭い場所で圧迫され凍死してしまったという見解である。
体にはヒジ、ヒザにすり傷がある程度で目立った外傷も無かった。争った形跡も無い。
死後硬直の状況から26日頃に死亡したものと思われた。
 遺体の身元はすぐに判明した。現場から車で10分ほどの村内に住むSさん(26)だったからである。
警察はSさんが覗き目的で便槽内に侵入し、狭さで出れなくなって凍死したものと判断した。

 事故死として警察に処理されたこの事件だが、村内では疑問を呈する声が囁かれた。
死亡したSさんは村に両親と祖母の4人暮らし。スポーツと音楽が好きな好青年。
高校時代は仲間とバンドを組んでギターを弾き、自ら作詞もして、作詞ノートを何冊も残している。

 仕事は隣町の原発保守を行う会社で営業主任を勤めていて、
村では青年会のレクリエーション担当部長として中心的存在。
明るく人望もあり、結婚式では司会をよく頼まれ、
村の村長選挙では応援演説を頼まれるほどの存在だったからだ。
 そんなSさんが覗きをするために便槽に忍び込むとは考えられない、
彼を知る誰もがそう話していた。

 また、住民のAさんは大喪の礼などで二十四日から二十七日まで休暇を取っており、
県内の実家へ帰省しており留守だった。後述するようにSさんとAさんは知人であり、
Aさんが留守という事を知っていた可能性がある。
もし知っていたらこのタイミングに覗き目的で便槽に侵入することはありえない。

 Sさんの足取りにも疑念が残る。
遺体で発見される4日前の24日(昭和天皇の大喪の礼当日)から足取りが途絶えていたのだ。
5日前の23日に先輩の送別会に出席、翌24日深夜1時ごろに店を出た。
その日の午前10時ごろ、父親は居間でテレビを見ていると、
「ちょっと行ってくるからな」というSさんの声を聞いたのを記憶している。
そこから遺体発見までの4日間、Sさんの足取りはプッツリと途絶えてしまっているのだ。
 車は教員住宅近くの農協駐車場で、カギを付けた状態で発見されている。
それに靴の片方が土手で発見されているのも不可解だし、
そして死亡推定日が26日。行方不明から2日程は生きていたことになる。
Sさんはその間何処でどうしていたのか?
 それにマンホールの直径は36cmに対し、25-29歳男性の平均肩幅は40.4cmである。(※経済産業省2004-2006調査)
Sさんんの体格は不明だが、女性並に小柄だとしても(同年代女性の平均肩幅は36cm)ギリギリである。
肩をすぼめれば入れないことはないが、かなり困難であることは明白であり、
常識的に考えて自らの意思で入ることが躊躇われるので狭さである。
仮に侵入を試みたとしても、その狭さから途中で諦めそうである。
それでもSさんは最後まで侵入し、その結果身動きが取れなくなり命を落としている。
そこまでして覗きをしたかったのだろうか?

 事件後、村内ではある噂が囁かれていた。。
事件直前に行われた村長選挙は、近年まれに見る非常に厳しいものであった。
その選挙に絡んでSさんは殺されたのではないか?という噂だ。
Sさんが応援演説に途中から出てこなくなったことが憶測を呼ぶことになる。
(Sさんは金のバラまきに嫌気がさして関わることをやめたらしい)
 噂が噂を読んでしまいには「だれだれが怪しい」といった名指しで疑いを口にする者が現れるにいたって、
真相解明を求める署名活動が起こり、1ヶ月あまりで集まった4000人程の署名が、三春警察署に提出されている。
 しかし警察はあくまで事件性が無いとして取り合わず、捜査が行われることはなかった。
たしかに村長選挙が原因で殺人が行われたと考えるのは、いささか突飛すぎるであろう。
 それに、仮に第三者が意識不明状態や死後に無理矢理押し込もうとしても、
マンホールの狭さからして自分で入る以上に困難をともなうことは想像に難くない。

 もうひとつ気になる事実がある。
Sさんと教師のAさんとは、Aさんの恋人男性を通じて知り合いだった。
そして、以前Aさんがイタズラ電話に悩まされていたことがあり、
Sさんは恋人男性と一緒にそのイタズラ電話を録音して、警察に届け出ていた。
結局この件で警察は動いてくれなかったが、Sさんの知人によると、
Sさんは犯人が誰だかほぼ突き止めた様子だったという…
 はたして突き止めたというイタズラ電話の主はどこの誰で、
そしてこの件に関係していたのであろうか?
今となっては確かめるすべはない。

グリコ・森永事件(警察庁広域重要指定114号事件)

1984年3月18日、兵庫県西宮市の自宅で子どもと入浴していた江崎グリコ社長・江崎勝久さん(当時42歳)が、家に押し入った2人組の男に連れ去られた。犯人は江崎社長を人質に大金を要求。その後、監禁されていた江崎社長は自力で脱出。しかし、犯人はグリコ製品に青酸を入れたとして、同社を脅迫し始めた。やがてその矛先は丸大食品、森永製菓、ハウス食品などにも向けられた。犯人グループは頻繁に警察やマスコミに挑戦状を送っていたが、85年8月に犯行終結宣言。すべての事件は時効を迎えた。

事件の概要

1984年3月の江崎グリコ社長誘拐事件から始まった「グリコ・森永事件」。かい人21面相は人こそ殺していないものの、実に多くの人々に被害を与え、恐怖を味あわせた。だがもう一方で、関西弁で独特のユーモアが効いた声明文などもあり、報道を見ていた人々が「奴らはいったい次に何をしでかすのか」といった期待にも似た思いを持っていたことも事実だろう。そのあたりがこの一連の事件がスケールの大きい「劇場型犯罪」と呼ばれた所以であるし、近年になっても模倣しようとする犯罪者があらわれる一因でもある。

グリコ社長誘拐事件

1984年3月18日 
この日、江崎グリコ社長・江崎勝久さん(当時42歳)は京都市にある菓子問屋の社長の長男の結婚式に招待され、夕方頃に兵庫県西宮市二見町にある自宅に帰宅、その後2階の浴室で江崎社長と小学5年の長男(当時11歳)、二女・Y子ちゃん(当時4歳)が一緒に入浴した。午後9時38分、長男が浴槽につかり、江崎社長が二女の背中を洗っていた時、白い毛糸の目出し帽の2人の男が押し入って来た。
「静かにしろ」
男は拳銃と空気銃のようなものを構えていた。江崎社長は全裸に泡をつけたまま2人の男に囲まれ連れ去られ、家の前に止まっていた赤色の乗用車に押しこまれ、薄い毛布をかけられた。運転席には第3の男がおり、車を急発進させた。

男達は浴室に入る直前、2階東端の寝室でテレビを見ていた夫人(当時35歳)と小学2年の長女M子ちゃん(当時7歳)も襲っていた。長女が悲鳴をあげると、男は「M子ちゃん、静かにしろ」と言い、2人を粘着テープで後ろ手に縛り、脇のトイレに閉じ込めた。夫人はこの後、自力でテープをほどき通報しようとしたが、寝室の電話線は切られていた。すぐさま1階に降り、食堂の電話から通報した。これは午後9時36分のことである。夫人は子どもの元に向かい、初めて夫が連れ去られたことに気がついた。

男達は江崎社長の家にどうやって侵入したのか。実は江崎社長宅の母親(当時70歳)が1人で住んでいた。母親は江崎宅の合鍵を持っており、犯人はまずこの家に侵入し、母親を縛ったうえで鍵を奪っていたことがわかった。その鍵は社長宅の勝手口にささったままとなっていた。
この後、未明にかけて、江崎社長宅には計11回の無言電話があった。

3月19日
午前1時頃、社長宅から約30km離れた高槻市安岡寺町の江崎グリコ取締役宅に電話がかかり、男の声で「高槻市真上北自治会の釜風呂温泉の看板の前に電話ボックスがある。その中を見ろ」と言ってきた。大阪府警機動捜査隊員がその電話ボックスを見に行くと、身代金10億円と金塊100kgを要求する脅迫状があった。

10億円という金額は積み上げると高さ9.5mになり、重さは130kgにもなる。しかし、江崎グリコは実際にそれを用意していた。しかし約束の時間である午後5時を過ぎても、取締役宅に犯人からの連絡はなかった。
午後6時23分、ついに電話があった。「茨木のレストラン『寿』。81局の7500番。お前の名前は今後、中村や。1人で連絡を待て」
電話はその後、6時49分、56分、7時1分の計4回、同じ内容であった。ちなみにレストラン「寿」は茨木市ではなく、高槻市にある。
副社長である社長の弟・正道氏(当時39歳)は現金5000万円を持ち、指定されたレストランに近い、取締役宅に入り、レストランには捜査員が張りこんだが、この後犯人からの連絡はなかった。県警は江崎社長の安全を考え、記者クラブに報道協定を申しこむが、すでに朝刊・テレビで報道がされていた。結局、協定はこの日じゅうに締結されたが、夕刊紙「日刊ゲンダイ」は新聞協会に加盟していなかったため、報道を続けた。

3月20日
兵庫県警、社長宅に押し入った2人組の犯人像を発表。
▼A・・・身長160cm位。35、6歳。中肉。目と目の間が広く俳優の川谷拓三に似ている。鼻は低い。白の目出し帽、黒っぽい運動靴、白手袋、拳銃を所持。
▼B・・・身長170cm位。40歳前後。押し殺したような低い声で喋った。白の目出し帽、白手袋、黒っぽいジャンパー、黒い靴を身につけ、空気銃を持っていた。
※犯人の1人は関西弁に語尾に「~ケ」とつける話し方をした。私(管理人)は滋賀県の生まれですが、私の地元にはそういう方言が使われており、県内でもちょっと南の方に行くとそういった言い方は使われていない。
▼後に発表された運転手役C・・・20歳ぐらい。身長165cm前後。赤ら顔にニキビ。黒い目出し帽。高知訛り?の関西弁。

3月21日 
午後2時15分すぎ、摂津市新在家の国鉄大阪貨物ターミナル駅構内の留置1番線を、ふらついた足取りで歩いてくる男性がいた。男性は古びた黒いオーバーと、濡れたズボン、右手首からロープを垂らし、右頬には傷があり、裸足だった。この男性に気づいた保線区の作業員達は「覚せい剤中毒の患者か?」と思ったという。それほど異常な風貌をしていた。実はこの男性こそ、65時間前に自宅から連れ去られた江崎勝久社長だった。
「見つかったら殺される。見張りがおらんから逃げてきた。見つかったら自分も殺される。早く110番を!」
社長は作業員に車に乗せてもらい、ターミナル駅輸送本部まで連れていってもらった。事務室に駆けこんだ社長は、自分で「サイレン消して迎えに来てくれ。娘が殺される」と110番通報した。警察に保護された社長は、自宅に電話をかけ「M子は大丈夫か?」と何度も聞いた。これは犯人達に「同じように娘も誘拐した」と聞かされていたからである。夫人は「M子は無事ですよ」と言ったが、社長はその後も捜査員に確かめた。
しばらくは府警の事情聴取に対して話し始めた江崎社長だったが、グリコ幹部が駆けつけてきて、「5分間だけ社長としゃべらせてくれ」と言ってきた。この個室における2人の話し合いは20分にもなり、捜査員が部屋に入ると、さきほどまで饒舌だった江崎社長は早く家に帰りたい。「私が無事だったから事件は終わったんでしょ?」とめっきり話さなくなった。この時の幹部は亡くなり、その会話内容を知る者は江崎社長しかいないが、それは絶対に明らかにされることはないだろう。ちなみに社長に対する事情聴取は、その社会的地位を考慮して、事情をよく知った捜査指揮者ではなく県警の警視クラスの人間が行なったという。この点は批判を招くものとなった。

社長の話のよると、車で連れ去られると頭から袋をかぶせられたという。途中、高速道路料金所で金額を告げる係員の声を聞いた。そして茨木市宮島の安威川左岸の水防倉庫に到着、そこにずっと監禁されていたという。この水防倉庫には水害に備えて土嚢や縄などが積まれていた。周りには人家はなく、一般市民が入ってくる場所でもない。社長は事件当日夜にこの小屋に連れこまれ、2階に縛られて転がされた。犯人は「勝久」と呼び捨てにし、M子ちゃんを誘拐したと伝えた。食事についてはパン、ビスケット、缶ジュースが与えられた。犯人は20日夜に姿を消したという。

社長が縛られていた状態だったのに逃走に成功したのは、20日昼頃に犯人が足のロープをはずし、腕を緩く縛り直したからだった。実際、社長は自力で手のロープをはずしている。このことから犯人は社長をあえて「解放した」という見方が強かったが、捜査本部では「犯人の誤算」と見ているという。それは次のような理由である。
水防倉庫には2ヶ所の出入り口があり、普段使う東側の鉄製の扉には、犯人が形が同じで鍵の形状が異なる南京錠を取り替えてつけていた。これは鍵がないと開かない。しかし社長が逃げたのは、東側ではなく北側のレール状鉄扉からで、これはナットとボルトでとめられていたが、腐蝕しており、社長はドアを叩いているうちにこれに気づいて手でナットを回して開けた。このナットの腐蝕については、犯人が把握していなかった可能性が高いというのである。犯人は全裸状態だった社長に黒いオーバーをかけたが、これは1940年(昭和15年)以前に新潟県村上市の製造されたものを、戦後表地を裏返しにして仕立て直されたものだった。
なお、この日で報道協定は解除されている。

3月22日
この日、江崎社長は自宅で役員会を開いた。この席上で、社長は「私には全く犯人に心当たりがない。みなさんの中で、もし心当たりがあるなら、私に不名誉なことであっても構わない。正直に警察に話してくれ」と伝えた。

かい人21面相

4月2日 
この日はグリコ本社の入社式だったが、社長は欠席した。朝、江崎社長宅に6000万円を要求する脅迫状が届いていた。 
「この要求に応じるかどうか、土曜日までに、全国紙の新聞広告で回答せよ。▽西宮市熊野町の喫茶店『マミー』で日曜日(8日)の午後7時に連絡を待て。▽現金受け渡し場所はあらためて指示する。▽要求に応じなければコンチを爆破する」※コンチ・・・・コンチングマシン。チョコレート製造で、カカオをミルクなどと混ぜ合わせる、製造工程の心臓部
封筒には録音テープと目薬容器が入っていた。テープには監禁中の江崎社長が吹き込まされた声が入っており、まぎれもなく誘拐犯本人だった。目薬容器には塩酸が入っていた。脅迫状にはさらに「写真ばらすぞ」と書かれていた。
犯人のこの要求に対して、社長は捜査本部と相談したうえで、応じないことを決めた。

4月8日
取引には応じなかったが、犯人が接触する可能性を考え、熊野町近辺の道路や、喫茶店「マミー」には防弾チョッキを着用した捜査員が張りんだ。
同じくこの日、報道機関と兵庫県警甲子園署に挑戦状が届いた。
     

4月10日 
午後8時50分頃、大阪市西淀川区の江崎グリコ本社・工務部試作室から出火。その20分ほど前に残業していた社員がドアを施錠して、鍵を守衛室に預けたばかりだった。火は棟続きの作業員更衣室にも燃え移り、試作室約150㎡は全焼した。これは放火事件であり、犯人は警戒が手薄な通用門から侵入した可能性が高いと見られた。当時、通用門は残業社員の出入りがあるため赤外線センサーを切っており、施錠もされていなかった。

9時20分、淀川をはさんで約3km南のグリコ栄養食品でも火の手があがった。車庫に止めてあったライトバンが何者かに放火されたのである。こちらはすぐに従業員が気づき、車の天井部分を焼いただけで消しとめられた。出火の直後には、ゴルフ帽のような帽子に白マスク、作業衣、ジーンズの不審な男がボストンバッグを抱えて逃げるのが目撃されていた。放火にはガソリンの入った容器のふた代わりに布を詰めたものが使用され、犯人は布に火をつけ立ち去った。

さらに大阪府警の無線の妨害もあった。グリコ本社出火の際の指示の後に、「ピー」という音の妨害電波が断続的に入ったのである。捜査員は無視して交信を続けていたが、連続音になり、午後9時55分頃からは男の声で「まじめにやれ」「アホか」「キャラメルやろか」などという言葉が繰り返された。この妨害は午後10時20分頃まで続いたという。これも一連の犯行グループによるものと見られたが、この事件に関しては8月末に神戸市長田区の無職男性(当時31歳)が逮捕されている。この男性は夏頃にかけて、関西4府県警の警察無線に数百回も妨害電波を流していた。

4月11日
午前8時ごろ、江崎家に「思い知ったやろ。今後も気をつけろ」と男の声で脅迫電話。
さらに午後3時5分、京都市伏見区のグリコ栄養食品京都工場にも、3、40代の男の声で「燃やすから、覚悟しろ」という電話があった。

4月12日 
警察庁、この一連の事件を「広域重要114号事件」に指定。

4月16日 
午前11時頃、茨木市東野々宮町の曙橋左岸橋脚台に釣りに来た人が「えんさんきけん 大さか市西よど川区歌島4-6-5 江崎グリコ 江崎勝久」と書かれた脅迫文が添付された塩酸入りの赤いプラスティック容器が置かれているのを見つけた。脅迫文は、以前の脅迫状に使われたタイプライターと同じもので書かれていた。「えんさんきけん」から「ん」の文字を抜き取ると、「えさきけ(江崎家)」となると報じた新聞もあった。
この容器は一般家庭で灯油用に使うもので、富山市の会社が75年5、6月に製造した約25,000個のうちの1つだった。

4月20日
午後5時ごろから3回、江崎社長宅に脅迫電話があった。内容は不明。逆探知の結果、この電話は阪急西宮北口駅の今津線宝塚行きホームの公衆電話が使われていたことがわかった。

4月23日 
大阪の毎日、サンケイの新聞社に脅迫状が届く。初めて「かい人21面相」と名乗った。さらに豊中市の江崎グリコ常勤監査役宅に脅迫状が届いていたこともわかった。
「24日か27日夜、豊中市上津島3丁月のレストラン『ダンヒル』に、現金2千万の束を6つ、1億2千万円持って来い。グリコ本社の運転手1人で、カローラで来い。午後7時半に連絡する」

4月24日 
捜査員は指定された豊中インターチェンジすぐ傍の喫茶店「ダンヒル」で待機。午後7時半頃、監査宅に「名神高速道路を85キロで吹田のサービスエリアへ走れ」という電話が入る。これは録音テープに吹き込まれた女の声だった。初めて江崎社長誘拐の3人の男の他に仲間がいることがわかった。
運転手に扮した捜査員は犯人の指示通りに吹田SAに向かった。ここで車を止め、煙草の自販機の上を見ると、手紙が置いてあるのを見つけた。
「国鉄高槻駅前の公衆電話ボックスへ行け。×印のついた電話の下を見ろ。電話帳に手紙がはさんである」
捜査員は指定された電話ボックス(7台並び)に行き、印の電話ボックスを調べたが電話帳に手紙はなく、犯人からの連絡もなかった。

5月9日 
江崎グリコ大阪工場付近の路上にガソリンを入れた家庭用洗剤のプラスチック容器3個が置かれる。

5月10日 
朝、報道機関に挑戦状が届く。グリコ製品に青酸を混入するという脅迫状に、ダイエー、ジャスコ、ニチイ、イトーヨーカドーなどの大手スーパーはグリコ製品の撤去を始めた。
実はこの挑戦状の前に、本社に「グリコアーモンドチョコレート20個に青酸ソーダを入れる用意をした。いうことを聞けば、中止する」という脅迫状が届けられていた。

5月13日
江崎グリコは全国紙5紙、地方紙などに事件に対する見解と、小売店などへのお願いを内容とする「謹告」広告を掲載。

5月14日 
江崎社長が本社で記者会見。「隠し事は一切しておりません」

5月17日 
報道機関に挑戦状。ダイエー社長を名指しする内容。詳細。
  
5月18日 
捜査本部、監禁中の江崎社長に着せられた黒いオーバーコートと、黄・緑・ピンクのラインの入ったスキー帽を公開手配。スキー帽は東大阪市の「松原商店」が78年秋に120個つくったうちの1つ。

5月20日 
グリコと取引のあった大阪市東区の香料製造会社「長岡香料」に、グリコへの裏取引を迫る脅迫状。
「3億円出せ。出せば青酸ソーダ混入の脅しをやめる。茨木市内のレストランに金を持って来い。江崎グリコに伝えろ。要求に応ずるなら、長岡香料の前に自動車3台を縦に並べろ」
長岡香料がグリコと取引のあることは、それほど知られておらず、盲点となっていた。この後、捜査本部の指示で、車を並べた。2通目は30日に届いた。

5月23日
大阪証券取引所で江崎グリコの84年3月期決算案の発表。大久保会長はグリコ製品販売停止の影響を受ける翌年度の決算について、事件が早期に解決しても、50億円の減収となる」という見通しを明らかにした。

5月26日
グリコが茨木市のロッテリア茨木店で裏取引に応じるも、犯人は姿を現さず。この裏取引が報じられたのは6月に入ってからである。

5月30日
長岡香料に2通目の脅迫状。
「6月2日午後8時から8時半の間に、摂津市内のレストラン・大同門の駐車場に、3億円を積んだ白色のカローラを置け」

寝屋川・アベック襲撃事件

6月2日 
捜査本部は途中でエンストを起こすように細工したカローラに3億円を積み、午後7時10分に江崎グリコ総務部長と総務課員の2人が本社を出発した。午後7時57分には焼肉レストラン「大同門」駐車場に到着。周辺には約30人の捜査員が張りこんでいた。

午後8時45分頃、駐車場に不審な男が現れた。男はタイプ打ちされた「これを持参した者に自動車を引き渡せ」というメモを持っており、そのままカローラに乗りこんだ。しかし、北へ550mほど進んだところでエンストを起こし、追尾した警察によって取り押さえられた。ようやく犯人の一味を捕まえた、と誰もが思った。

「違う、俺は違う。女の子がさらわれたんや!グリコなんて知らん」
しかし、男性は否定した。この男性は商事会社に勤めるXさん(当時22歳)で、同僚の恋人とデートしている時に3人組の男に襲われたのだという。

この夜、Aさんと恋人Y子さん(当時18歳)は、「大同門」から約2.8km離れた寝屋川市木屋元町の淀川堤防に停めたトヨタ・チェイサーの中で、ラジオを聞きながら話をしていた。その周辺には同じように車を停めて話しているカップルがいたという。
午後8時15分頃、突然運転席の窓から銃身のようなものが差し込まれた。外には男が立っており、元自衛隊員で腕力に自信のあったXさんはすぐに飛び出したが、すぐに別の男に顔や頭を殴られた。男達は無抵抗となったXさんを車に押し戻し、Y子さんに果物ナイフをつきつけ、「言うことを聞かんと、命ないぞ」と脅して、2人に黒い布袋をかぶせた。
このカップルを襲ったのは3人組の男だったという。1人は20m離れたところに停めてあった別の車にY子さんを連れ去り、残る2人がチェイサーに乗りこみ、Xさんに「言うとおりに走れ」と指示した。
男の指示通りに走っていた車は、やがて「大同門」を通りすぎた。Xさんはここで2人組に指示され、降ろされたのだという。

Xさんによると、カローラは「(襲撃現場である)淀川左岸堤防まで持って来い」と指示されていた。さっそく捜査員がカローラでこの現場に向かい、午後11時頃まで待ったが犯人は現れなかった。

一方、連れ去られていたY子さんは車の後部座席に乗せられていた。堤防から数分走ったところで車は止まり、3、40分停車したところで再び走り出した。
午後9時半頃に車は止まり、男から「友達と10時半に寝屋川市駅前で落ち合え」と指示された。タクシー代として2,000円を渡され、両手で顔を目隠ししたまま降ろされた。「10かぞえる間、どこも見たらあかん」と言われていたからである。
B子さんは3つ数えたところで振向くと、車はドアを閉めながら、京都方向に向かって走り去った。後部ドアは自動で閉まった(ようにY子さんは思えた)のである。このため犯行に使われた車はタクシーの払い下げ車両だったのではないかと見られた。その後の調べでは車種はトヨペット・クラウンか日産セドリックと判明している。  
なお、Y子さんが降ろされたのは京都の光善寺駅である。
Xさんはその夜遅くまで事情聴取され、勤務先の寮に戻っていたY子さんの話とも内容が一致し、グループとは関わりのないことがはっきりした。

カップルを襲った3人組の特徴
▼A・・・30歳前後。身長168cmぐらい。黒い毛糸の帽子に黒っぽい布を顔に巻く。
▼B・・・25歳前後。やせ型。覆面をし、果物ナイフを持っていた。
▼C・・・25~30歳。低い声。
※江崎社長誘拐の際のA、B、Cとは対応していない。

6月3日
未明、Aさんのチェイサーが、寝屋川市木屋町の神社の参道に乗り捨ててあるのが見つかった。車内の運転席には果物ナイフの鞘、助手席のマットには目隠し袋が残されていた。
鞘からは、岐阜県関市の刃物メーカーが78年から20万本以上を製造した果物ナイフのものとわかった。このナイフはスーパーなどの「100円均一」で販売されている普及品だった。目隠し袋は大阪市の「小泉」が84年1~4月に「丹治織物」に発注し製造された布地が使われていた。これはスーパーなどでスカート生地として販売されていた。

また2日午後9時15分に、チェイサーが見つかった神社で、茶色の日産ローレルが2、3分ほど停車した後急発進していたこと、アベック襲撃現場と「大同門」周辺で、屋根にキャリアを取り付けた「36-84」ナンバーの不審車が目撃されていたことがわかった。

6月11日
捜査本部は管内80万世帯を1軒1軒洗うローラー作戦を実施。この捜査は8月まで続き、10月下旬から第2次が開始されている。

キツネ目の男 丸大食品脅迫事件

6月22日 
高槻市緑町の丸大食品に脅迫状が届いた。
「グリコと同じ目にあいたくなかったら、5千万円用意しろ。警察には届けるな」
犯人はこの裏取引に応じる合図として、「26日付の毎日新聞朝刊と、27日付サンケイ新聞朝刊にパート従業員募集の広告を掲載しろ」、「28日夜、高槻市日吉台5番町の太田常務宅に現金を用意して待て」と指示した。

6月24日 
グリコが新聞に「ともこちゃん、ありがとう。グリコはがんばります」という7段抜きの広告掲載。滋賀県に住む小学2年生の女の子からの激励の手紙が同時に掲載されていた。
「わたしはグリコのおかしが大好きです。でもはんにんがどくをいれた というのでおかしがかえなくなってとってもさみしいです。だからはん人がつかまってはやく『グリコ』のおかしがたべたいです」

グリコは当時、TVCMも減らしていたが、突然のこの広告に、裏取引の可能性が指摘されている。そして翌日、グリコはターゲットからはずされた。

6月26日 
報道機関に挑戦状。「グリコ狙うのもうやめたる」と休戦宣言。詳細
これを受けて、江崎グリコは生産の全面再開を打ち出し、スーパーなどでも販売再開が決められた。

一方、丸大食品は犯人の指示通り、新聞広告を出した。
「パート募集 宣伝販売員 ▽35歳までの健康な女性 ▽時給500円交通費全額支給 丸大食品人事部」

6月28日 
丸大食品は裏取引に応じ、午後6時10分、現金を用意して太田常務宅で待機した。
午後8時3分、犯人からの電話があった。またも女性による録音テープだった。
「高槻の西武デパートの三井銀行南 市バスおりばの観光案内板の裏」
 
同社の社員を装った捜査員が案内板の裏を調べると、タイプ文字の指示書が貼ってあった。
「国鉄高槻駅に入れ 8:19か8:35の京都行き各停に乗れ バッグ出せるように進行方向に向かって左側の窓を開けて線路を見とれ 白い旗が見えたらバッグを外にほれ」
他にも切符と座席図が同封されており、犯人は後ろから2両目に乗ることを指示した。

捜査員は指示通りに高槻駅から8時35分の国鉄電車に乗ったが、あいにく降雨と日没のため白旗が見えず。京都駅から高槻駅に引き返した。

その車内では社員(捜査員)の様子を絶えず気にしていた不審な「キツネ目の男」が、同乗していた別の7人の捜査員達によって目撃されていた。男は35~45歳くらい、身長175~178cm、縁なし眼鏡をかけ、グレーの背広を着ていた。現金を持つ捜査員が京都で降りると、この男も降り、捜査員の座るベンチの隣りに腰掛けた。男も高槻駅まで戻り、捜査員が改札口を出て行くのを見送っていたという。別の捜査員がこの男を尾行してみたが、雑踏のなかに消えていき見失った。この「キツネ目の男」は後にも目撃される。

7月3日
高槻市山手町の藤田政光・丸大食品取締役宅に脅迫状。
「6日午後8時、茨木市内のレストランで待て」

7月6日 
夜、丸大食品は吹田市新芦屋上の小森嘉之・取締役宅で犯人からの連絡を待った。
午後8時7分、犯人からの電話。今度はなんと子どもの声の録音テープだった。
「茨木市上穂積のバス停看板の横の電話ボックスの物置台の裏」
 
午後9時12分、社員に扮した捜査員が指定場所に着き、指示書を見つけた。
「茨城インターから名神高速道路に入れ 京都方面へ時速85キロで走れ。山崎バス停待合室のベンチの裏」

午後9時29分、捜査員は現場に着いた。
「深草のバス停のベンチの裏」
捜査員は高速道路を北上して京都市伏見区深草五反田町に向かった。

午後9時40分、捜査員が深草バス停に到着
「太田1人で高速バスの看板のある30cm四角の白い布のところにバックを置け」
捜査員は言われる通りにしたが、犯人は姿を現さなかった。

この直後、丸大食品には犯人から、「おまえら なに やっとんや」というタイプ文が送りつけられた。
この一連の丸大脅迫事件は、11月に入って犯人の挑戦状によって初めて公にされた。

7月23日 
ジャスコ社長、ニチイなど4社宛てに警告状。詳細

森永事件

9月12日
「グリコと同じめにあいたくなければ、1億円出せ」
朝、大阪市北区西天満の森永製菓関西販売本部に数千万円を要求する脅迫状。青酸入りの菓子が同封されていた。これで「要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて 店頭に置く」と脅していた。「現金の受け渡しは18日、守口市のレストラン『USA』で待て」とした。
同社・松崎昭雄社長は、役員との協議で1億円を準備することを決断。不動産取引の名目で、現金を準備し、小田島総務部長が空路で大阪に運んだ。

9月18日 
午後8時半頃、森永脅迫事件で犯人から関西支社に連絡。電話は子どもの声を録音したもので、5回繰り返した。
「レストランから、1号線を、南へ、1500m行ったところにある。守口市民会館の、前の。京阪本通2丁目の、陸橋の、階段の下の、空き缶の中」
捜査員が指定された陸橋の空き缶(森永乳業製品)を調べると、「京阪守口市駅の東口へ行け」というメモが入っていた。その後、守口市内の衣装箱の中に現金を入れるも、犯人は姿を現さず。
捜査本部は、この事件を、一連の脅迫状とタイプの活字も違い、その表現も異なることから、便乗犯によるものと断定した。

9月25日
報道機関に挑戦状。森永の事件は便乗犯ではなく、自分たちによるものと主張した。

10月7日~13日 
この1週間で兵庫、大阪、京都、愛知のスーパーなどで青酸入り森永製菓の菓子を13個発見。

10月8日 
報道機関に青酸入り菓子のばらまきを予告する挑戦状。
また阪急百貨店社長など27社宛てにも、森永製品撤去を求める脅迫状があった。

10月10日 
関西西友は「販売を続ける」という姿勢をとっていたが、この日の午後に森永製品を撤去することを決定。他にもすでに青酸菓子が見つかっていた店舗、伊勢丹(東京)、松坂屋(名古屋)など本州の店舗が撤去を開始した。
森永製菓は経費節減のために近畿地区でのTVコマーシャルを中止。

10月11日 
捜査本部、4月24日の脅迫電話で流れた録音テープを公開。
「名神高速道路を、85キロで、吹田のサービスエリアへ、走れ。京阪レストランの、左側の、煙草の自動販売機の上に、手紙がある。手紙のとおりにしろ」
前述したように、女の声で録音されたものである。抑揚がなく、紙に書かれた文を読み上げるような調子だった。

次に9月18日の森永脅迫事件の脅迫電話。子どもの声である。
「レストランから、1号線を、南へ、1500m行ったところに、ある守口市、市民会館の、ま、エッ?・・・・・・・前の京阪本通2丁目の陸橋の、階段の下の空き缶の中」

報道陣が、犯人グループに女と子どもがいるのを知ったのは、この日だった。国語学者による、この女と子どもの声の解析は次のようなもの。

▼国語学者・金田一春彦氏
女は「走れ」の「シ」を高く発音しており、東京~愛知、あるいは岡山~山口出身になるらしい。また子どもの方は「2丁目の」の「の」を平らに発音しているので、やはり東京~愛知(岡山~山口の可能性も)で生まれ育ったのでは、と推測。

▼甲南女子大教授・鎌田良二氏
全体に名古屋以東。とくに関東式のアクセントが強い。女は20代後半から30代前半、子どもは10代の声。

▼関西外語大教授・堀井令以知氏
完全に東京式のアクセント。

この音声については、各府県警でテレホンサービスを行い、電話回線がパンクしそうな勢いだった。 
「犯人は近所で遊んでいる子ども達に声をかけ、録音してもらったのではないか」という声もあったが、捜査本部は「あの緻密な犯人がそんな軽率なことはしない。後で通報されればアウトとなる」とこの説を否定した。実際、そうした子どもは名乗り出ていない。

また日本音響研究所長である鈴木松美紙は次のような分析をしている。
「4月24日の江崎グリコへの電話は中学2、3年の女の子。9月18日の森永製菓への電話は小学5、6年ぐらいの男の子」
「2人とも、口の動きがスムーズであったため、書かれた文章を読む練習をかなり行ない、ほとんど暗記した状態で録音したのではないか」と推測した。

10月12日
森永製菓は製菓部門5工場で50%減産。臨時従業員、パートら450人を自宅待機させた。

10月15日 
捜査本部、ファミリマート甲子園口店の防犯カメラに映っていた「不審な男」の映像を公開。
男が映っていたのは10月7日の午前10時27分から11時23分の間。男は2、30代。身長170cmでがっちりした体格、眼鏡に巨人の野球帽をかぶり、帽子からはパーマのかかった髪がはみ出ていた。服装はベージュのブレザー(ノーネクタイ)、白っぽいズボン、スニーカーである。男はまずまず棚から週刊誌をとりだした。続いて、菓子売場へいく途中、カメラに気づいたような素振りをした。その後、青酸ソーダ付着のドロップ発見場所に近寄り、レジで会計をすませた。
報道機関に挑戦状。NHK大阪放送局に30錠の青酸錠が郵送される。

10月16日 
大阪の西友系スーパー2店に脅迫状。青酸入り菓子が同封されていた。 
「店長え おまえらの店の名前で  店のきゃくえ おくることもできるんやで かい人21面相」(消印・豊島郵便局10月13日午後)
西友グループは全国230店で森永製品を撤去した。
森永製菓は全国でTVコマーシャルを中止。

10月19日~22日 
東京・豊島区のファミリーマートの郵便受けに青酸入り菓子が投函される。

10月22日 
ファミリーマート埼玉城北地区本部(豊島区)の郵便受けに青酸入りのドロップとキャラメルが投函される。
森永は自社製品を袋に詰めた「1000円パック」を街頭で販売開始した。これはなかなか好評で、11月27日には100万袋販売した。

10月23日 
6月2日の現金奪取の際に使用された改造タクシーが大阪・生野区で発見される。

10月25日 
報道機関は7月後半に食品メーカーに脅迫状が届いていたことを初めて報道。

11月1日 
報道機関に挑戦状。詳細
森永乳業副社長宅に森永製菓宛ての脅迫状。詳細
森永製菓、9割減産体制に。

11月6日 
森永製菓、犯人の指示通り毎日新聞朝刊に要求に応じるサイン「二郎へ」という尋ね人広告を出す。詳細

ハウス事件

11月7日 
ハウス食品工業総務部長宅に脅迫状。詳細
森永は東京証券取引所での9月中間決算発表で、「経営段階では下半期だけで46億円の赤字になる」という見通しを発表。また450人のパート従業員の解雇や、社員の冬のボーナス支払延期、削減を示唆した。この時はすでに5工場で一割程度の可動率に落ちこんでいた。結局、森永の損失は200億円以上になった。

11月9日 
ハウス食品工業に裏取引に関する確認電話。ハウス側はこれに応じる返答。

11月12日 
長岡京市の電設会社でライトバン盗難。
鈴木邦芳・大阪府警刑事部長は報道協定を報道機関各社に要請。

11月13日 
報道機関に挑戦状。詳細
マスコミは2回目の報道協定を締結。

11月14日 
午後6時過ぎ、ハウス食品工業は犯人の指示通り、現金1億円を積んだ白いワゴン車を出す。乗りこんだのは社員ではなく、警官2名。東大阪市の本社を出発した車は、近畿自動車道に入り、名神高速道路へ。
午後6時53分、車は京都市伏見区のファミリーレストラン「さと伏見店」の北300m地点で待機。犯人指定の午後7時20分に同店駐車場に入った。店内では、アベックを装った警官が張りこんでいた。
午後8時20分、店内で社員に扮した捜査員が犯人の指示を待っていたところ、ハウスの総務部長宅に電話が入った。公衆電話(静岡以東、広島以西)からの電話で、子どもの声の録音テープである。4回繰り返された。
「京都へ向かって、1号機を、2キロ、バス停城南宮の、ベンチの、腰掛けの裏」

午後8時38分、指定されたバス停には次のようなメモがあった。
「おまえら、みはられとるで 名神こうそくどおろ 京都南インターに はいれ 名ごや方面え じそく85キロで はしれ 大津の サービスエリヤ の身障者用の ちゅう車場の 〇印の ところで とまれ ×印の あんないづの かんばんの うらに 手紙 はってある みたら かいてある とおりに しろ」

午後8時59分、名神・大津サービスエリアの張り紙発見。
「これ みたら すぐ うごけ 草津の パーキングまで 85キロで 走行車せんを はしるんや パーキングの しるし みおとさんよう 1人が しっかり みはるんや 草津の パーキングの ベンチの こしかけの うらに 手紙 はってある  〇印の ところや    かいてある とおりに しろ」

この大津サービスエリア駐車場には不審な男がいた。黒っぽいジャンパーに黒いゴルフ帽、35~45歳、サングラス、パンチパーマ風、細くつりあがった目。あの「キツネ目の男」である。目撃していたのは、6月28日に電車内で目撃した捜査員と同一人物である。キツネ目の男は5、60m離れたところから現金輸送車の様子をうかがっており、捜査員が近づこうとすると逃げ去り、姿を消した。

午後9時23分、滋賀県草津市の名神・草津パーキングエリアで張り紙発見。
「これ みたら すぐ うごけ なごやの 方え じそく60キロで はしれ 左がわの さくに 30センチ × 90センチの 白い ぬの みえたら とまれ 白い ぬのの 下に あきかんが ある なかの 手紙の とおりに するんや」

現金輸送車が到着するよりも先に、白い布が草津PAから東へ5kmの地点の道路脇の防護フェンスに取り付けられているのが発見された。道路管理局の巡回記録によると、14日午後8時50分から午後9時18分の間に取りつけられたものとわかった。この防護フェンスの下には、県道川辺-御園線が交差しており、犯人が現金を受け取るには、絶好の場所だった。ワゴン車を指定したのも、車高の高さから下の道から確認しやすいからだと考えられる。警察はこの県道と名神の交差部分を封鎖した。
しかし、問題の空き缶がなかった。犯人らしい男も姿を見せず、午後10時20分に捜査は打ち切られた。

この日、ひとつの捜査の不備があった。現金輸送車が草津PAに向かっている頃、栗東町川辺の県道川辺-御園線に、白いライトバンが停まっているのを、偶然通りかかった滋賀県警のパトカーが気づいた。滋賀県警は本部から「名神高速道路とインター付近には近づくな」という指示を受けていたが、この地点は高速道路からも離れているので、巡回していた。もちろん、最重要事件の現金取引所であるという連絡も受けていない。
午後9時18分、滋賀県警は人気のないこの場所に停められたライトバンに近づいた。人が乗っている様子はなかったが、ライトを照らしたところ、運転席に男がいた。このライトバンは急発進したが、この警官はすぐには追尾しなかった。その後、サイレンを鳴らして後を追ったが、男はこのあたりの地理を熟知しているようで、パトカーは追いつくことはできず、草津駅前の商店街あたりで見失った。

▼白いライトバンの男・・・40歳ぐらい。無精ヒゲで頬がこけている。紺と黄色のセーターに巨人軍の帽子をかぶり、パンチパーマ。耳にはイヤホンをつけていた。この地の道をよく知り、運転が巧い。

※ファミリーマートのビデオに映った男と共通する部分がいくつかある。

午後9時25分、草津市内の薬局前にエンジンがかかったままの白いライトバンが見つかったが、男の姿はなかった。県警は9時35分に周辺に緊急配備を敷いたが、時既に遅し、男を発見することはできなかった。

白いライトバンは、ナンバーから、京都府長岡京市の電設会社駐車場で、11月12日に盗まれていたものとわかった。車内には改造無線機(83年から84年9月に秋葉原の無線屋で売られた357台の1つ)、女性用バッグ(東京・墨田区のメーカーがつくった455個のうちの1つ)、バッグの中に粘着テープ、白い綿製ロープ、黒の家庭用ゴミ袋、軍手、プライヤー、針金2本、茶封筒2枚が入っていた。この針金は、白い布を固定していたものと一致した。遺留品は他に、サファリハット(県内の平和堂堅田店などで売られたもの。直毛が付着)、クリッパー、小型掃除機(ナショナル製)、ポリエチレンの手提げ袋などがあった。

「滋賀はなんだ!台無しじゃないか!」
この1件で、滋賀県警がバッシングに遭う。しかし、これは滋賀県警だけのミスではない。捜査本部から県警へ連絡がいかなかった点が問題だったのである。この背後には大事件に関わったことが少ない滋賀県警へ対する「軽視」があったとされた。広域捜査の難しさが出た。県警本部長は翌年、責任をとり焼身自殺している。報道協定下だったので、この事件はすぐには新聞で報じられることはなかったが、日本新聞協会に加盟していない新左翼系の「人民新聞」(当時3000部前後の部数)はこの事件を報じ、後日号外を配っている。

プチエンジェル事件

犯人の29歳の男性は無店舗型の非合法の未成年者デートクラブ「プチエンジェル」を経営。女子高生数人をスカウトとして雇い、渋谷や新宿で「カラオケ5,000円、下着提供10,000円、裸体撮影10,000円」などと書かれたチラシを配ってローティーンの少女を勧誘し、男性客に斡旋、その他わいせつビデオの販売も合わせて多額の利益を得ていた[1]。また本人も過去に買春で逮捕歴があり執行猶予中だった。
2003年7月上旬、少女のうちの1人が渋谷で勧誘され、「会ってくれたお礼」として犯人から金をもらう。犯人からは「いつでもおいで」といわれており、以降も携帯電話で連絡を取っていた。
同月11日、犯人はフェラーリ2台を売却する。また、犯人とは別の男性が赤坂のウィークリーマンションの部屋を契約する。部屋は最上階11階の2LDKで、費用は犯人が払った。
翌12日、犯人は都内の量販店でポリタンクや鉄アレイを購入。この際に練炭や七輪も購入したとみられている。
13日、少女4人は犯人から「部屋を1万円で掃除してほしい」と誘われ、渋谷駅前で待ち合わせて、タクシーで赤坂のマンションに連れて行かれる。マンションで掃除を始めると「ここに来た意味わかるよね」と犯人の態度が豹変。手錠と目隠しをされて監禁された。2人が逃げようとするが失敗、手錠にポリタンクや鉄アレイを付けられて逃げられないようにされスタンガンで脅された。
同日深夜 家族から警察に捜索願いが出される。
15日 マスコミで少女が行方不明になったと報道される。
16日午前 警視庁は犯人の逮捕状を2002年3月に中学2年の少女を買春した容疑で請求。捜査員が犯人の住所付近で聞き込みを始める。
同日朝9時頃 犯人はリビングでテント状にしたビニールの中に入り、七輪で練炭自殺を図り死亡した。だがビニールが溶けてしまい(自殺は)不可能だと当時の報道関係者がコメント[要出典]している。
17日 物音が聞こえなくなったのを見計らい、少女の1人が手錠をはずして脱出、外に出て近くの花屋に助けを求める。駆けつけた警察官が4人を保護、犯人の死亡を確認。
事件を受けて翌日には渋谷で一斉補導が行われ、少年少女1,500人以上が補導された。
その後の捜査によって、借りていた埼玉県久喜市のアパートから1,000本以上のビデオテープと2,000名に及ぶ顧客リストが押収された。しかし、多くが偽名であることを理由に捜査は打ち切られた。そのため、芋づる式の一斉検挙といった動きはなく、当事件は解決を見せたが、その背後にあるとされたデートクラブ絡みの疑惑は真偽不明のまま終わっている。また赤坂という立地条件などから、政財官が絡む疑獄事件が出典不明のまま流布されているが、2016年8月時点で裏付けは取れていない。

三億円事件(三億円強奪事件)

現金輸送車に積まれた東京芝浦電気工場従業員のボーナス約3億円(2億9430万7500円)が、白バイまで用意した偽の白バイ隊員に奪われた事件である。被害金額3億円は現金強奪事件としては当時の最高金額であった。その後の現金強奪事件では金額こそ三億円事件よりも強奪金額が多い事件があるが、1968年当時の3億円は現在の貨幣価値に直すと約10億円にあたり、貨幣価値においては現金強奪事件としては最高クラスである。

三億円強奪事件ともいわれているが、事件のあった日本において、本件犯行は強盗罪には該当せず、窃盗罪となる。犯人が暴力に訴えず計略だけで強奪に成功していること、盗まれた3億円は日本の保険会社が支払った保険金により補填され(事件の翌日には従業員にボーナスが支給された)、その保険会社もまた再保険(日本以外の保険会社によるシンジケート)に出再していたので損害の補填をうけ、実質的に国内で損をした者は1人もいないこと、及び被害金額2億9430万7500円の語呂から、“憎しみのない強盗”のあだ名もある。ただし、保険料金の値上げなど長期的な経済被害は存在する。またマスコミの報道被害を受け後年自殺した人物や、捜査の過労で殉職した警察官2名が存在する。

警視庁捜査において容疑者リストに載った人数は実に11万人、捜査した警察官延べ17万人、捜査費用は7年間で9億円以上が投じられる空前の大捜査となったが、1975年(昭和50年)12月10日、公訴時効が成立(時効期間7年)。1988年(昭和63年)12月10日、民事時効成立(時効期間20年)。日本犯罪史に名前を残す未解決事件となった。

この事件以来、日本では多額の現金輸送の危険性が考慮されるようになり、給料等の支給について(銀行など)口座振込としたり、専門の訓練を積んだ警備員による現金輸送警備が増加した。